ほわり、と。
無機質な音を立てながら紅く染まるその中では、今し方作っていた生地がふっくらと膨らみ丸みを帯び始めている。
然程珍しいものでも無いだろうに、神楽は其処から動こうともしない。
新八は苦笑しつつも咎めることをせず、彼女を遠目で眺め―――然し銀時はそれを好しとはしなかった。
徐に神楽に近寄ると、手にしていたボウルでぽかりと彼女の後頭部を叩いた。
「好い加減にしろ、神楽。後片付けまでが料理だぞ。ほら、いつまでも齧り付いてねーで手伝え」
やれやれといった風に溜息を零しながら、それでも銀時にしては珍しく、言葉程の強制を強要したりはしなかった。
それでも滲み出る何かを悟ったのだろう。神楽は薄桃色の髪を靡かせながら、たん、と真っ直ぐ一歩を踏み出した。
「これ、片付ければ良いアルカ?」
専用の籠に無造作に置かれている食器を指差しながら、顔だけをこちらに向けて問う。
銀時は諾の代わりに一つだけ頷き、布巾を神楽に投げて寄越した。
「俺が洗うから、お前が拭いて新八に渡せ。くれぐれも割んじゃねーぞ」
皿一つでも多大な出費になんだからよ。
そう嘯く銀時に、神楽は悪態を吐きつつも素直にその言葉に従い、手を懸命に動かしている。新八はその光景を一歩引いた所で見詰めながら、微かにはにかんだ。
神楽は目に見えて浮き足立っている。
銀時は心なしか纏う空気が和らいでいるし、新八も―――矢張り自然と湧き上がる笑みを隠す事が出来なかった。
仕方が無い。
今日はホワイトデーなのだ。
***
粗方片付けが終わり居間で寛いでいると、遠くでチン、というか細い音が聞こえた。
耳聡く聞き付けた神楽が勢い良く立ち上がり、台所まで一目散に走り去っていく。
つられた様に銀時も立ち上がり、そうして矢張り、何時もより若干大股で歩いて行くのを、新八は見逃さなかった。けれども新八自身、狭い家の中、心持ち小走りで彼らの後を追っているのを気付いてはいない。
―――今日は誰しもが浮かれている。
台所から漂う、香ばしい匂いが余計その浮遊した気持ちを助長させているのかもしれない。でもきっとそれは、とても喜ばしい事なのだろう。
そんな事を考えていた所為か、新八が台所へ入った時には既にオーブンから鉄板は取り出され、銀時と神楽が無造作に中身を皿に盛っている所だった。
こういう時だけ相変わらずの早業に、溜息を飲み込んでそっと皿を覗き込む。広い大きめの皿の上には、きつね色に焼けたクッキーが所狭しと並んでいた。
ほわり、
少し甘い香りを含んだ焼き菓子特有の匂いが、鼻腔を擽って食欲をそそる。
山盛りになったそれを銀時がひょいと抱え上げ、神楽は歓声を上げて彼の後ろをついて行く。新八は盆にお茶を三人分載せて、更にその後ろを歩いた。
とんとん、とリズミカルに響く足音が今の心境を如実に表している様な錯覚を覚えて、面映いような気持ちになる。
こんな奇妙な事を遣り出したのは、一体いつからだっただろうか。
言い出したのは誰なのか、そもそもその原因を作り出したのが一体誰だったのか。もうそんな些細な事は覚えていない。
けれども三人で、というのが肝心なのだ。
世間と如何にズレていようが、これだけは譲れない事でもあり、そうでなければ意味を為さないのである。
居間に着いて銀時がことりと大皿をテーブルの中央に置き、新八も用意した茶をそれぞれの前に置いた。
全ての準備が整った今、彼らは一呼吸の後、一言。
「では、頂きます」
「ホワイトデー乾杯アルヨー!」
「俺5、新八は2、神楽3、な。間違えんなよ!」
そうして手に取ったクッキーは歪な形をしていたり、それとは逆にとても綺麗な形をしているものもあった。
ほわり。
匂いと共に奥底で温かく燻るそれを、三人は黙する事で享受した。
end.