やわらかな知性
陽が緩やかに真上へと向かうにつれて、開け放たれた窓から光がきらりきらりと降り注ぐ。陽射しによって程好く温まった部屋のど真ん中で、銀髪の男が胡坐をかいて座っていた。その男の大きな体躯に隠れるように、傍らには小さな影が、身体半分、見えている。
男は右手を小さく、けれどせっせと動かしている様で、時折それに合わせる様に左手も動かす。暫くそうしていて、それからゆるりと動きを止めると、男はサラサラと流れる薄桃色の髪の毛を、大きな無骨な手でやんわりと撫でた。
「終わったぞ、神楽」
神楽と呼ばれた少女は男の大腿に乗せていた頭をがばりと勢い良く起こし、ふるふると桃色の髪を散らした。
「ありがとネ、銀ちゃん」
向けられた年相応の笑顔に少しくすぐったさを覚えながら、銀髪の男――銀時は、ぽんと小さな頭に手を乗せた。
と同時に、黒髪の少年が洗濯物を抱えてやって来る。そして目の前の光景に訝しげに首を傾げて、一言、何やってるんですか、と問うた。
「見りゃ分かんだろ。耳掻きだよ、耳掻き」
畳の上に無造作に置かれているちり紙やそれを見れば、確かにそれは一目瞭然だ。けれど、そんな事ではなく、何故わざわざ人にしてもらう必要があるのかという事を、己は言いたかったのだ。彼女は幼いが、けれどもたかが耳掻き如き、自分一人で出来ない歳でもないだろうに。
疑問を素直に告げると、銀時と神楽は互いにちらりと視線を寄越すと、にやり、これまた似た様な顔を新八に向けた。
―――本当に、どうしようもない所だけはそっくりだ。
親の背を見て育つとは強ち莫迦に出来ないもので、一応保護者の立場にいる銀時の影響を、神楽は強く受けている。実の親などよりも、この男の影響の方が大きいのでは無いだろうかと危惧するも、何だかそれも既に手遅れの様な気がしないでもない。
密かに心の内で溜息を吐いて、新八は視線で神楽に再度問う。それを受けて、神楽はふふんと踏ん反り返り、それはもう自慢げに、そして何処か嬉しそうに言い放った。
「テレビでやってたアルヨ!」
「…は?」
「だから、テレビでやってたアルヨ。男が幼妻の膝枕で耳掻き。コレ、ヤローのマロンネ!」
「浪漫、ね。で、影響受けて銀さんに頼んだと」
「私もその男のロマン、理解してみようかと思って」
何処か誇らしげな台詞に頭を抱えつつ、よくしてやる気になったものだと、気紛れを起した男を見る。
瞳に映ったのは、苦笑して肩を竦めた姿だった。
それに何故かカチンときて、口を開きかけたその時、
「じゃあ私、定春の散歩行って来るヨ!」
大声で駆けて行く少女の所為で、放たれる筈だった言の葉は霧散してしまった。
嵐の如く去って行った神楽に、呆気に取られてその場に立ち竦む。そうしてもや、と心の内を巣食う何かに、新八は眉を顰めた。
それが何かを分かりたくなくて、けれども既にその奥底では理解している自分に嫌気が差して、無言のまま新八は踵を返す。
「新八」
それを咎める様に、背後から声が掛かる。
こっちへ来いと誘われて、誰がそれを断れようか。
誘導されたその先、銀時は未だに苦笑いをその顔に貼り付けたまま、自分の隣を指した。その顔をじいと見詰めながら、隣に座る。
その表情は微苦笑、けれどそれにしては少し柔らかな印象を受けた。そこでああ、と合点がいく。
きっと彼は困惑しているのだろう。然しそれだけではなく、その中には多少の嬉しさも垣間見えた。
そうして矢張り、黒い渦が胸の内をのたうつのを、実感する。
基本的に銀時という男は、頼られればそれをやってしまう人間なのだ。そしてそれが神楽という内側の人間からの頼み事となれば、彼はそれを拒否などしないだろう。
だいたいにしてこの男は、彼女に甘い節がある。神楽はおろか銀時自身、気付いているのかどうかは、定かではないのだけれど。
「初めてなんだとよ」
「はい?」
唐突に口火を切られて、反応がつい遅れてしまう。
「耳掻き。して貰うの、初めてなんだとよ」
「それって…」
「今迄してもらった事ねーんだと」
「だから、勘弁してくれや」
今度こそ本当に苦笑した銀時に、新八は恥ずかしさで死にそうになった。ちゃちな嫉妬を見抜いた男の詫びに、如何に自分が子供なのかを思い知る。
頭上にぽんと置かれた大きな掌に、目頭が熱くなって、不覚にも泣きそうになった。
歪んだ顔を隠そうと俯いたその先、視界の隅にころりと転がるそれを見付けて、新八はあ、と声を上げた。
「ん?」
首を傾げた銀時に、精一杯の虚勢を張る。
「今度は、僕がしてあげます」
「は?」
「だから、今度は僕が、耳掻き、してあげます」
微かに震える声で新八がそう告げると、銀時はやんわりと口角を上げた。
「おう、そうしてやれや。アイツもきっと喜ぶ」
穏やかに返された応えに、新八はそうではないと必死に首を振った。
そうでは、ないのだ。
「神楽ちゃんにも、要望があれば勿論しますけど、違います」
初めてだと告げた彼女の心情は、憶測の域を出ないにしても、何となく解る、気がした。
では、逆はどうだろう。
する方の立場の男もきっと、そんな事をしたのは初めてなのではなかろうか。
その一番が自分では無い事に、酷く失望した。まるで玩具を買って貰えなくて拗ねる子供だ。今更ながら、その幼稚さに居た堪れなくなる。
でもだからこそ、気付いた事もある。
「銀さんの初めては、僕がしてあげますよ」
圧倒的に与える事の方が多い彼に、してあげられることは何だろうか。
きっとされる事には慣れていないであろう男に、少しでもそれを与えてあげられたらいい。そのぬくもりを、味わえばいい。
出来得る事ならば、それを与えた最初の人間が、自分だったら良いと思う。
「オイオイ、やけにやらしい言い回しだなぁ、新八君よ」
にやんと笑う銀時に、けれどそれが照れ隠しなのだと知っている。
それがあんまりにも愛しいものだから、新八は声を立てて笑い転げた。
end.