サマーノスタルジック
軒先の風鈴が涼やかな音と共に風を連れて来た。
温い風。ああ、今年もまた、夏がやって来た。
艶やかな緑の黒髪の先をくるくると弄んだ指で、少女は制服のスカーフを外した。
―軒先の風鈴の音に耳を傾けていた少女の向かいの席に、それを邪魔しない為か、はたまたただの癖か、青年は何も言わず腰掛けた。
頬杖はそのままに、少女は気だるげに問いかける。
「香水、変えましたの?」
そもそも青年が香りの類を身につけないのを知りつつ、それでも、どこかに微かな期待を込めて。
その証拠に、少女は黒く澄んだ髪の先をくるくると指で巻いた。
「ああ、甘いのには飽きたんだ」
「今度のは、随分爽やかですのね」
「さっぱりした、良い香りだろう?」
「…わかりませんわ。わたくし、詳しくありませんもの」
所詮儚いことは、その小さな身体全部に沁みていたことだけれど。
「お前には、まだ早いね」
「…」
こうも呆気ないと、七日の命の蝉さえ羨ましくなってしまう。
「お兄様、どうなさいますの」
「お前は?」
「かき氷にしました」
「じゃあ、私もそうしよう」
笑顔で店主を呼ぶ青年は、今の少女にはあまりに遠く。
「勿論、奢って頂けますわね?」
可愛くない口もききたくなるというものだった。
「お前のそれは?」
「ブルーハワイです」
「ハイカラだね」
「お兄様はイチゴですか。何だか可笑しいわ、幼い子供のようで」
やって来た赤と青で彩られた氷菓は、照りつける太陽を受けきらきらと輝いている。
眩しさに瞳を細めると、青年は微笑みつつ、残酷な台詞を吐いた。
「女の顔をするようになったね。お前、きっと良い男と巡り会うだろうよ」
「………」
ずっとあったはずの風鈴の音を押し退けて、ここぞとばかりに蝉が鳴き出した。
少女の小さな鼓膜は、喧しい蟲の悲鳴でいっぱいになる。
「頂こうか、溶けてしまわぬうちに」
「…はい」
―何に肯定したのだ、私は。
よくわからぬまま、青年の真似をすべく、少女は青く濡れた氷を匙で掬って、それを口に運んだ。
「美味いね」
「ええ」
まただ。―私は何に頷いた?
真剣に考えようとするのに、蟲の悲鳴が鼓膜では飽き足らず、とうとう脳内まで侵し始めたようで、
「ん…倫、髪が」
「はい」
どうしても、首を縦に振ってしまう―――。
「っ、」
「ついているよ」
「…は」
「綺麗な長い髪、もったいないね」
青年の指が、少女の手入れを欠かさない毛先に触れていた。
「伸びたね」
―だって、伸ばしたんだもの。
言いたいのに、口は可愛くないことしか喋る気がないらしい。
「―触らないで!汚らわしい!」
「!」
握っていた匙が、焼かれた地面へ放り出される。
はぁはぁ、と荒い息を零し、少女はキッと青年を睨めつけた。
「痛いよ、倫」
「痛くしたんですもの」
「兄に対してこれかい?感心しないね」
「今朝方までその指で何をなさっていたのかくらい、わたくし、知ってますのよ…!」
―馬鹿にしないでよ。
「わたくし、望兄様、大嫌い」
―私の方が、ずっと前から、最初から、お母様の子宮にいる時からお慕いしているのに!
ゆらりと、景色が、青年が、揺れる。蜃気楼とは、こんなものだろうか。
「私は、好きだよ」
撥ね退けられた指先を見つめながらの青年の言葉が、一体何への告白なのか、少女にはわからなかった。
「だいっきらい…っ」
蝉の声はとうに止んでいたのに、俯いた少女の脳内は、侵され切ってしまっていて。
軒先の風鈴は既になく、少女の着物は柄を変え、帯の結びも異なっていた。そうして、佇む少女の手には、レースの日傘が収まっている。
鼓膜を撫でるのは、風。
「香水、変えましたの?」
気がつくと隣に並んでいた青年へ、少女は穏やかに尋ねた。
「いや、つけていない」
「あら、わたくしはてっきり、あの方と同じ香りとばかり」
「誰のことだい」
「とぼけることないじゃありませんこと?」
あの気の良い店主には迷惑を掛けた。今はどこに消えたとも知れないが、変わらずかき氷を振る舞ってくれていたら。
「お兄様、わたくし、フラッペが食べたい」
少しだけ救われる気が、少女にはしていた。
「それなら、駅前のデパートに行こうか」
「ええ」
本当は知っている。どんなに髪を伸ばしても、あの子には敵わないこと。
そんなこと、あの頃抱いた儚い希望よりも簡単に、あの子は打ち砕いてしまった。それでも、
「綺麗な長い髪、大事にしているね」
「はい」
「これからも、伸ばすのかい」
もう二度と触れられなくとも、
「きっと」
少女は青年の為に、手入れを怠ることはないのだ。
『サマーノスタルジック』
作品名:サマーノスタルジック 作家名:璃琉@堕ちている途中