自蛾
…耳障りな虫の羽音で、目を覚ました。
蛍光灯のきつい光が、目蓋の裏の暗闇に慣れた眼球を焼く。痛みに二・三度瞬きして身を起こすと、時計が示す時間は深夜。部屋の中のむっとした温度ももうなく、網戸にした窓からは夜の空気が沁み込んできている。きっちり閉まったカーテンが、夜風を孕んで揺らめいた。
夏の夜は、昼の喧騒から考えられないくらいに静かだ。人の話し声も、車のクラクションも聞こえない。
聞こえるのは虫の声と、普段気にも留めないような電子機器の唸りだけ。切れ掛けた蛍光灯が瞬いて、鉄琴のような音を立てる――……その、蛍光灯に。
「……津久居さん」
僕は机に突っ伏している彼を、揺すって起こした。彼は緩慢に身を起こし子供のように目を擦って、獣みたいに欠伸をした。
「ふ、あ……なんだ。晃弘」
僕は答えずに、蛍光灯を指で示した。津久居さんが蛍光灯を見上げ、痛そうに眉を顰める。
「……点けっぱなしだったか。悪い」
津久居さんがおもむろに腰を上げて、蛍光灯の紐へ手を伸ばした。その影がテーブルを滑って、僕の座るソファまで伸びてくる。
僕は手を伸ばして、津久居さんの腕に触れた。津久居さんが手を留め、寝ぼけまなこに僕を見下ろした。
「違います。座って下さい」
「……はあ?」
「いいから。お願いします」
「…………」
……津久居さんは意外に素直に、腰を下ろした。寝起きだから噛み付く気にもならなかったのだろうか。僕はもう一度蛍光灯を指した。
「虫が…」
「蛾、か。何処から入ってきたんだか」
「網戸は閉まっているのに」
「虫なんか何処からでも入ってくる……」
津久居さんはもう一度欠伸をして、それからこきりと首を鳴らした。その視線がテーブルの上の煙草を探すのが判って、僕はそれを津久居さんの方へ押しやった。
「お、悪いな。…ついでに火、頼む」
ライターを擦って火を近付けてやると、津久居さんが目を細めて火を受けた。微かに紙の燃える音がして、ライターに火が灯る。津久居さんが身を離した。
「気持ち悪いな。出すか」
主語はなかったが、多分僕ではなく蛾のことだろう。
「…いえ。どちらでも」
「なら放っておいてもいいが……ちょっと、五月蝿いな」
津久居さんの視線の先には、蛍光灯の周りを盛んに飛び回る蛾がいた。それを反射して、燐粉がキラキラ光っている。ビロードのような羽根とブラシのような触角。柔らかそうな腹部。
「蛾が好きなのか?」
「――え」
いつの間にか津久居さんは蛾ではなく、僕の方を見ていた。蛍光灯とも燐粉ともまた違った明るさが、その指先にある。
「嫌に真剣に見ていたな」
「別に。好きでも嫌いでもありません。ただちょっと、懐かしかっただけで」
「懐かしい?」
「久々に貴方以外の生き物を見ました」
「…………」
津久居さんは一瞬目を丸くすると、すぐに不機嫌そうに眉を寄せた。かと思うと徐に煙草を逆の手に持ちかえ、立ち上がって躊躇いなく蛾を摘まんだ。
「……あ」
津久居さんの指先で、苦し気に蛾がもがく。燐粉が蛍光灯を弾いてぱらぱら散った。
津久居さんはそのまま窓へ歩いていくと、カーテンと網戸を開けて蛾を逃がした。それから網戸もカーテンもきっちり閉め直して、津久居さんが元のように座り直す。煙草を持ち直した指が、燐粉で微かに光っていた。
「手を洗ったらどうですか」
「面倒だ」
「せめて拭いてください」
僕は津久居さんに、ティッシュの箱を差し出した。しかし津久居さんは受け取らず、自分の服で掌をぞんざいに拭いた。
「……何が気に入らないんです」
「別に何もない」
「そうは見えませんが」
「五月蝿い。晃弘、灰皿」
「自分で取ってください」
「言うことを聞け。家主は俺だ」
「…………」
…僕は渋々腰を上げると流しへと歩いて行った。その中には食器と一緒にぞんざいに、水の張られた灰皿がある。水は茶色に濁っていて、煙草の臭いがした。
僕はその水を流しに捨てると、煙草を三角コーナーに放り出した。
濡れた灰皿で津久居さんが煙草を揉み消すと、じゅっと水が蒸発した。灰皿に放り出された煙草が、燐粉を微かに纏っている…
「……昔、弟に連れられて、虫取りに行った」
「…………」
「蝉やら甲虫やら、蝶やら団子虫やら芋虫やら蟻やら……標本を作って、夏休みの工作にしたかったんだと」
「…はあ」
「しまいにゃゴキブリまで捕まえて、お袋は泣くわ親父は怒るわで俺まで怒られた。でもあいつはなんでもない顔して、どっからか手に入れてきた虫ピン刺してんだ。生きたまま…ゾッとした。子供が怖いってのはこう言うことかと、思った。その標本の中に蛾も、いたような……」
「…………」
…僕は虫ピンを握り締める清史郎を想像して目眩を覚えた。正しくはその、虫ピンの尖端を想像して。
兄が僕の左目を潰したあれは一体なんだったっけ?もしかして、虫ピンじゃなかったか?だったからあれは兄じゃなくて、清史郎だったんだっけ――……ちがう。
僕は奥歯を噛み締めた。汗の滲んだ掌を服で拭う。
「あの標本は、どうしたんだっけな……」
津久居さんの言葉が、独り言のような響きで耳朶を打った。
「まだ、あるんですか?」
「どうだろう。あるとしたらお袋のとこか…それか学校か、捨てたか……捨てたような、気がするな」
「へえ……」
津久居さんに頷いて返す僕の頭の中で、清史郎が何匹も何匹も虫を殺した。子供の残虐性そのままに、腕をもぎ足をもぎ、踏み潰し水に沈め火を点ける。
いつの間にか清史郎の顔は僕に擦り変わっていた。まだまっさらな目をした子供の僕が、興味ただそれだけに虫を殺す。まだ世界を阻む膜なく見ているぼくが。蟻に引き摺られる片羽の蛾を横取りして踏み潰したような――
「……あきひろ」
温い感傷から引き戻されて顔を上げると、津久居さんと視線が絡んだ。僕は残された右目で、じっと津久居さんを見つめる。
津久居さんは僕を通して、どこか遠くを見ていた。