かけらあそび
普段は二人乗りしている頼りの自転車はタイヤがパンクしてしまった。修理費がもったいないので一度家まで持ち帰って、具合を確かめてから、修理に出すかどうか決めよう。そういう結論に達したら、追い払う口実もなくなってしまった。
本当は嘘でもついて自転車屋に寄っていくと告げたほうが気が楽だった。
欠けてる彼は嘘を知らない。だから一言「自転車屋に寄っていくから先に帰っててくれないか」と言えば、二つ返事でそうしただろう。
彼の隣は居心地が悪いから、できれば一緒にいたくないのに。
彼の隣にいると、自分がいかに最低な人間か、嫌でも思い知らされるから。
ボールの神様に愛された彼は、ボールを投げるという行為に関しては他の追随を許さない、まぎれもない天才だった。彼の投げる小さなボールは獣のように吠え猛り、ミットめがけて飛び込んでくる。その速さ。その熱さ。言葉では言い表せない。
しかし、それ以外に関しては目も当てられないぐらいだった。特に対人関係は劣悪を極める。誰かを思いやることができず、常に誰かと対立している。一度は部活動の先輩からリンチされたことすらある。
どこにでもあるような普通の家庭に生まれ、ありふれた幸せを受けて、ここまで育ってきたはずなのに(余談だが、彼の弟は人懐っこくて可愛い)。きっと十本の指はボールに触れるためだけに与えられて、誰かと手をつなぐなんてことはそもそも想定の範囲外だったのだろう。
ボールを投げる。速い球を投げる。ただそれだけ。それ以外は何も知らない。
だから彼は誰に対しても嫉妬しない。何に対しても憎悪しない。相手がなんであろうと恐れない。目の前に誰が立ち塞がろうと脅えない。自分より強い相手がいても怒らない。自分の実力を悔しがらない。野球に対して絶望しない。野球の神様に愛された才能に優越感を感じない。そんなくだらないものは最初から持ち合わせていない。
ボールを投げるという一点においてのみ、恐ろしく震え上がるほどの実力で、誰彼構わず骨の髄まで魅了して白球の前に堕としてしまう天才は、ひどくバランスの悪い不完全な生き物だった。悪夢のような魅了力は、野球というフィールドを一歩離れてしまえばまったく無意味なものになる。
何人もの夢や希望を食らい尽くして肥えたはずなのに――――彼は、無冠の王子。否、無冠の姫。なぜか彼には『姫さん』という、似合わない呼称が与えられている。
城の奥で一人きり、ボールを投げているお姫さま。それはもはや野球ではなくキャッチボールでもない。ただの児戯だ。そんなお姫さまがあるときお忍びで城を抜け出して、そして知る。投げたボールを受け止めてくれるモノがあるという真実を。
「豪」
彼の冷たく澄んだ蒼色の声が、不意に宙を舞う。水晶のように翳りなく、矢のように痛烈な視線が、こちらを真っ直ぐ射抜いてくる。抉るような目。表情が乏しいせいで、怒っているようにしか見えない顔。
巧が少しだけ気だるそうに首を振った。色素の薄い短髪が風に揺れている。
「自転車、早く直せよな」
「歩いていくのがもうつらくなったんか。堪え性のない奴だな」
「違う」
巧はここで一度言葉を切った。少し置いてから続ける。
「おまえとチャリ乗るのは嫌いじゃないんだ」
「そうか」
短い言葉で応じると、巧は頷いた。伝えることを伝えたら、巧はまた黙り込んだ。
巧は寡黙だ。何か話すことがあるときには、真実だけを単刀直入に告げてくる。この小気味いい物言いが、ときに他者の胸を貫くことを彼は知らない。
巧の「嫌いじゃない」は、そのまま「好き」と受け取って差し支えない。拙い意思疎通能力をフル稼働して必死に訴えかけてくる。他の誰にもこんなことは言わない。それをどうだ。「おまえがキャッチャーだから、いっしょにいるわけじゃない。力さえあれば、キャッチャーなんか誰でもいい。だけど、だから、おまえがキャッチャーだからいっしょにいるわけじゃないんだ」さあ妬め。俺はあの化け物にここまで言わせたのだ!
この身は普通だ。どこまでも凡人だ。ありきたりで人並みを抜け出せない凡庸だ。
純粋な巧の純粋な気持ちを弄んで下卑た優越感に浸っている、最悪の男だ。
ボールを投げる以外は何もできない巧をいいように操って、自分こそが飼い主のように振る舞って。仲間に、友達に、そういう類の感情を抱いている。本当に酷い奴だ。
いっそ巧なんて嫌いになってしまえたらいいのに。
「巧」
声を掛けると、冷えた視線がこちらを捉えた。
「明日もおまえのボールを寄越せよ」
巧の無表情に意味がわからないと言わんばかりの色が混ざった。そんなの当たり前だと竦めた肩が物語る。そのちょっとした仕種に、内臓が昏い愉悦に熱くなった。この思いは他の誰にもわかるまい。
自分より優れたものを自分の支配下に置ける快感。自分より優れたものが自分の手中にある悦楽。さまざまな人の人生を狂わせ、惑わし、追い詰めていった存在を、弄ぶ心地よさ。
そして、その天才が全身全霊で自分を求めているという事実。
最低だ、こんなのいけない、そう思えば思うほど深みに嵌まっていく。
臓腑が震えるほどの強烈な衝撃が走り抜けていく。
からからに乾いた口唇を舐めて湿らし、もう何度も告げた言葉を彼にぶつける。
「渡さねえ」
巧は何も言わない。
ただ、かたちのいい口唇がほんのすこし、満足そうに歪んだ。
何も知らないくせに、何もかもを見透かしたような顔をして佇んでいる。
「渡してたまるかよ」
こうやって巧を縛りつけて、巧の球が受け止めきれなくなるその日まで、独占する。
こんないいもの他の誰かに渡そうものなら、悔しくて一睡も出来なくなるに違いない。
世界中の誰がなんと言おうと、原田巧は俺のものだ。
「おまえはおれのじゃ。おれが手に入れた」
「……ふうん」
否定がない場合はそのまま肯定と受け取っていい。巧は嫌なことははっきり拒絶する。
ちらりと一瞥をくれた中には、背筋が凍るほどの情念が凝り固まっていた。
それでいい、と、何も言わず目を閉じることで応じた。
突出しすぎた巧と、まとまりすぎた豪。
どちらがより出来損ないなのかなんて考えたって答えは出ないし、意味もない。
多分どちらも出来損ないで、どちらも最低で、どちらも最悪で、どれもが最善なのだ。そういうふうな星の下に生まれた。そういうふうな道を歩んでしまった。それだけの話。
「知らなかったな」
「何がじゃ」
「おれ、そんなに思われてたんだ」
巧妙に隠された真実を肌で感じ取ったのか、初めて見る顔で、巧が嗤っていた。
それに同じように応じて、夜が降ってきた空にきらめく星を眺めながら返した。
「ああ。やっぱりおまえは知らんことばっかりじゃな」
「ふうん」
壊れた自転車の車輪の音が、宵闇にカタカタと響いていた。
それはまるで二人の破綻した絆を象徴するかのように、いつまでも聞こえていた。