たとえばいつか哀しい空が 1-5
1
アメストリス中央司令部――そこに大総統府がある。
国全土で大革命が起き、大総統と幹部の大半が挿げ替えられてから、もう10年になる。
しかし新大総統の統治はそう長くなかった。能力の乏しかった大総統は下から引きずり下ろされ、今や隠居の身と聞こえている。
そして新たな派閥を引き連れ大総統の地位を得たのが、ロイ・マスタング だった。
中央では珍しく雪がちらついている昼間、かつかつかつと靴音を響かせながら、護衛の士官が固める大総統府の扉の前にひとりの青年が近づいていた。
明らかに軍人ではない。赤いコートを羽織り、金色の髪の毛は無造作に後ろで結んで背中に流している。
護衛のひとりがその姿を見て敬礼をした。す、と扉の前から位置をずらす。
「ごくろーさん」
近づいてきた青年はぶっきらぼうにそう声をかけて、扉に手をかけた。
「おい、あんた名前は……!」
もうひとりの護衛が慌てた様子で詰問する。
青年は垂らされた前髪の間からチラと護衛を見た。不思議な色を灯した金の瞳が覗いて、護衛は息をのむ。
ふ、と青年は口の端を上げた。
「エドワード・エルリック」
それだけ答えて、そのまま扉を開けて中へ入る。
「お、おい・・・勝手に・・・!」
「よせ、おまえ知らないのか?」
「何を・・・」
「あの人は元、鋼の錬金術師だよ」
「えっ、あの現大総統と革命を収束させたっていう?あの人が!?」
「ああ。軍人以外ではあの人だけが許可証なしで入ることが出来る。覚えといた方がいいぞ」
「はー・・・。しかしなんとういうか目立つなー。噂が派手だったから、かなりごつい人かと思ってたけど」
「当時はもっと背も低くて子供だったらしいぞ」
「へえ・・・」
護衛は、たったいま元国家錬金術師が通った扉をまじまじと見つめた。
エドワードが大総統の執務室に入り、まず感じたのはその部屋の寒さだった。
窓の向こうでは白い雪が降りてきているというのに、なんの暖房設備もないこの部屋はどういうことか。
ノックに返事をする間もなく開いたドアに、部屋の住人である大総統は静かに顔を上げた。
「やぁ、エドワード」
かつて共に戦った頃よりもすこし低くなった声が、エドワードを迎える。
エドワードはふん、と返事にならない返事で応えた。
肩にコートを羽織って机に向かうロイの姿は、大佐だった頃とほとんどかわらない。軍服に勲章が増えた、それだけのように感じる。その両肩にかかる責任の重さは、エドワードには想像もできないものだけれど。
目元の皺も・・・増えたかな。
「ちゃんと寝てるのか、大総統」
そう言いながら、エドワードはぱん、と両手を叩いて床に手をついた。ピリ、と空気が振動して、そこにストーブが練成される。
「その呼び方はやめてくれたまえ」
目を伏せてロイが微笑った。
(ああ、その笑い方こそちっとも変わらない)
じく、とエドワードの胸が痛んだ。
「火、貸せよ」
「君のその手足ではこの冬は寒いだろう。悪かった」
10年前-弟の身体をついに取り戻すことができた。しかしエドワードの手足は未だ機械鎧のままだ。
たとえ取り戻すことができたとしても、エドワード自身はそれを望んではいなかった。この手足は、己への戒め。決して忘れてはいけないものだったから。
パチンとロイの指がなってストーブに焔がともる。
エドワードはほ、と息をついた。
「シンよりましだ、寒さにはもう慣れた。メイから薬、預かってきた。ちゃんと飲めよ」
「そうか・・・ありがとう」
エドワードが差し出した紙袋を、ロイは微笑して受け取った。
「噂、聞いた。民主制を提言したって?」
エドワードは机に近寄り、彼の手を無造作にとった。何も言わずに発火布変わりの手袋を脱がせる。
その中の手は冷えきっていた。とても焔を錬成するとは思えないほど。
「ああ。なかなか簡単には運ばないがな」
彼はされるがままに手を預け、肩をすくめた。
(あんたの荷物は重すぎるんだよ)
歯がゆい気持ちをエドワードは押さえ込んだ。
「自分を大事にしろ。…もたねえぞ」
「エドワード、君はいくつになった」
「26だよ」
「まったく君はいつまでも若いな。しかししばらく会わないうちに、また少し大人びた」
「そんなんじゃない。俺は…」
俺は、焦ってる。―恐れているのだ、近いうちに自分を襲うであろう現実を。
恐ろしい、喪失の兆しを見ないふりして。
言葉にはとてもできなかった。その代わりに、生身の左手で彼の手を握り、漆黒の瞳を静かに見た。
この瞳に俺はどんな表情で映っているのだろう。こんなに苦しみに悶えている心のうちが、見えなければいいとエドワードは願った。
ロイも指先に優しく力をこめて握り返す。
「君の成長を、私はこれからも見守っていきたいよ…」
なぜかその台詞は空しく響いた。
エドワードの視線から逃れるように彼は重なりあった手に目をおとす。
旅を続けて日焼けしているエドワードに比べて、ロイのその肌はあまりにも白い。
「そうだな、今日はもう帰ろう。実は昼から休みをとった」
「大丈夫なのか?」
「ああ、この3ヶ月一日も休んでいなかったからな。むしろ歓迎された」
「あんたは…」
彼のなんでもないと言う口振りに、エドワードは本気で憤りを覚えた。旅に出る前、くれぐれも無理をするな、しっかり休めと言い聞かせて出て行ったこの俺の言葉を、こいつはどの耳で聞いていたのか。
憤りを押さえるように盛大にため息をついて、エドワードは手を離した。
「とにかく帰るぞ。車、俺が回すから。あんたは薬のめ」
「ああ…、家に帰ったらシンの土産話を聞かせてくれ」
「大総統どのがいい子にしてたらな」
エドワードは扉に向かって歩きだす。金色の瞳を優しく細めて彼にその色を残しながら、扉を開いてその向こうに消えた。
執務室に一人残ったロイは虚空に呟く。
「もう少し・・・もう少しだけ」
時間を俺に残してくれ。
ごほ、と咳き込む。手袋のない冷たい手に少し朱が滲んだ。
作品名:たとえばいつか哀しい空が 1-5 作家名:吉野ステラ