たとえばいつか哀しい空が 1-5
3
筋張った優しい手が背中をなぞる。
久しぶりに感じるその温もりと熱に、エドワードの身体中が甘い期待に脈打つ。己の身の内に潜む欲望が、どろりとうごめいた。
旅をしていた数ヶ月、忘れていた感覚。いや、思い出すまいとしていた感覚。
冷えた首筋に熱い唇がおちる。頬に触れた漆黒の髪の毛に、エドワードは指を伸ばして触れた。額から後ろに向かって撫で付けられたその髪に指を差し込んで、整えられたそれをぐしゃ、と乱した。
はらりと前髪が額に落ちる。その奥から、黒く光る双眸。
「エドワード…」
静かな瞳に射抜かれて、心臓がまたひとつ跳ねた。誤魔化すようにエドワードは微かに笑う。
「これで、あんたらしくなった」
前髪を下ろしたその顔は、この男をさらに若く見せる。
「大総統らしくない、と言われるものでね」
拗ねたように男は口元を歪ませた。
子どもみたいだ。エドワードは可笑しくなった。
「公務中はいいんだよ。俺だけが今のあんたを知ってたらそれで」
そう言ってやって、男に腕を伸ばす。清潔感のある白いシャツにそっと触れた。
ひとつ、またひとつと釦を外す。
白い生地から覗く肌が少しずつ広くなって、エドワードは高鳴る鼓動を鎮めようと微かに吐息を漏らした。
抵抗しない男の肩からシャツを滑り落とす。腹部の大きな火傷の跡があらわになった。年月を経たその跡は褐色に鈍く光っている。
優しく手を当てた。己しか触れることのない古い古いかつての傷跡。こんなものですら、愛おしい。
「ロイ…」
男の名を呼んで、その肩に頭を預けた。
わからない。
いつまで経っても、衰えないこの気持ちはなんなのだろう。
離せない。離されたくない。
けれど、四六時中傍にいて男を支える道は、選ばなかったのだ。
彼もエドワードに求めなかった。軍属の士官になれとは。
エドワードはそれが物足りなくもあり、けれど同時に、もし求められても頷かなかっただろうと分かっていた。
そして己は己のやり方で、彼と生きてきたのだ。
あの大革命の後。
身体を取り戻した弟は、しばらくして東の錬丹術を学ぶためシンに渡った。
エドワードは、国家錬金術師の資格を返上した。そして治まりきっていない地域の状況を把握するために、一人で旅に出た。
地方の実情―その貴重な情報は、ロイが買った。
そうして10年間、この男と繋がってきたのだ。
結局今でも、エドワードは自分の家を持っていない。けれど代わりに、帰る処を手にした。
立派な家もあたたかい食事も要らなかった。ただ、「おかえり」と口の端を上げて微笑んでくれる男がいる。そこが、エドワードの帰る場所だった。
譲れない。
今までも、…これからも。
「…っ」
寝室の冷たいベッドに、流れ込むようにエドワードは身を投げ出した。体重をかけないようにして男の姿態が覆いかぶさる。
機械鎧と肩の継ぎ目を、男の舌がつ、となぞった。その感触に、知らず口が開いて顎は天井を仰ぐ。喘ぎ声が漏れた。
「ロイ…」
両腕を伸ばして、男の首に絡めた。応えるように唇が落ちてくる。
膝に熱を持った手が触れた。抵抗する理由はなく、素直に脚を開いて男を迎え入れた。
「エドワード」
お互いに馬鹿になったように、互いの名前を呼ぶことしかできなかった。
語るべき言葉も、伝えるべき気持ちも、この吐息の中にすべてぶち込んで。
ふたりの唾液が交じり合って、脳内が弛緩して。
ずっとこのままいられるならどれだけ楽だろう。
けれど自分たちには立ち止まるという言葉がなかったから。
束の間の、曖昧で朦朧とした時間を、ふたりで分かち合うことだけが許されていた。
誰が決めたわけでもなく。
「エドワード…そばに―」
そばにいてくれ
男の声は最後までは空気に響かなかった。
エドワードも聞こえないふりをした。
(しばらく、そばにいるよ)
そう言ってやればよかったのかもしれない。けれど言えなかった。
次に己が旅に出るとき。それは永遠に最後の別れになるのだと…
心のどこかでエラーが出たようにずっと警告を鳴らされていたから。
だから言わなかった。
認めたく なかった。
作品名:たとえばいつか哀しい空が 1-5 作家名:吉野ステラ