告白
呉用の声が聞こえる。死ぬな、と言っていた。はっきりと聞こえるが、どこか遠いような気がする。
青蓮寺の護衛ごときに、やられた。精鋭だった。だが、昔なら、せめて十年前なら、こんな傷を負うことはなかっただろう。
やっと、死ねる。
それは、安寧にも似ている。
皆が死んだ。気づくと、生きているのは自分だけになっていた。河水に拠点を築いていたのは、何年前だろう。まだ二十代の半ばだったはずだ。その前から自分に付いてきた劉唐と、あとから加わった石秀、楊雄がいた。三人とも、何も言わずに自分について梁山泊へ入り、そして黙って死んでいった。三人とも、若いままの姿をしている。
あの頃の反逆の意志は、どこにいったのだろう。叛乱を起こす相手の宋は、とっくに崩壊した。南宋があるが、皇族でもなんでもない子供が皇太子を名乗っている程度の国だ。権力への渇望という、人の心の化け物が生み出した、偽の皇太子。結局、帝とはなんだのだ、という思いが湧いてきた。血統なんてものは、本当は国にとってはどうでもいいのだ。あまりにくだらなく、そして滑稽だ。
必死で戦うのも、馬鹿らしいくらいに。
なぜ、自分は死なないのだろう。自分の代わりに劉唐が死んだ。もう後がないという状況で、林冲の騎馬隊に救われた。もっと遡れば、両親が、そして拾ってくれた老師がいた。そうして、死んでもおかしくない状況を助けられ、今まで生きてきた。
心の中の友、か。劉唐が死んだ時、側にいてくれたのは、林冲と馬麟だった。その林冲が死んだ時に、私の酒に付き合ったのは、呉用殿、あんただったな。
呉用の部屋で目覚めた時、自分の頬に涙の痕があるのに気づいた。人前で、泣いたのか。
呉用は、何も言わなかった。
涙が流せることに、自分で驚いた。
林冲の存在が、自分の中から消えることはなかった。史進の馬鹿が林冲の真似などするから、余計に思い出させた。史進の中でも、林冲の存在が消えることはなかった。真似をすることで、心の中では生き続けていると、史進なりに思いたかったのだろう。
そんな史進を、林冲と同じように罵った自分も、同じことをしていたのかもしれない。
自分が死んだら、去っていった友に逢える。そんな話を聞いても、興味は湧かなかった。
だが、今なら、そんなことを言う人の気持ちがわかる気がする。
林冲。お前は若いまま、時を止めた。老いた私の姿を見て、お前は笑うだろう。
青蓮寺の護衛ごときにやられたのかと、罵るのだろう。
お前の声を思い出そうとしても、もう、記憶は遠い。
時は、無常だ。
お前の腕の力強さ。肌の匂い。大きく分厚い掌の温もり。唇の柔らかさ。甘い記憶。すべてが、遠くなってしまった。忘れたかったのかもしれない。だが、忘れられなかった。時が過ぎ、記憶が風化していくことが、せつなかった。
そう感じることは、もっとせつない。
もう、そんな喪失感は、たくさんだ。見るべきものは見た。これ以上は、自分には必要ない。
だから、呉用殿。私を、引き留めないでくれ。あんたのことは、結構、好きだったよ。あんたを理解しない軍人連中から、庇ってやることはなかったがな。あんたはこれからも、もがきながら生き続けるといい。私は、もう十分だ。
目の前には何もない。闇とも違うが、光もない。虚無だ。
その無の中から、懐かしい姿が現れることを、願った。
現れるだろうか。もう一度、見ることはできるだろうか。大きく逞しい体。力強い歩み。黒い具足。その顔には、皮肉っぽい笑みが浮かんでいるのだろう。
さらばだ、呉用殿。私は、もう行く。
昔は言えなかった言葉が、今なら言えるような気がする。
林冲。
私の側に、いてくれ。
end