早春賦 天球01
冬が別れを告げながら、人々の頬を撫でていった。
それはそう遠いことではなくとも、遠慮がちな太陽が厚い雲を割る時間も日に日に長くなり。
暖炉に火を入れるのもあとわずかなことだと、皆は笑みを交し合う。
けれども、互いのぬくもりを手放すにはまだ早い……そんな日。
早春賦
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邸を覆うのは、ベルリン郊外を取り巻くように茂る、鬱蒼とした森。
シュバルツヴァルト―――黒い森、と呼ばれるドイツの森だ。
そして、それは、少年を包む天球でもあった。
その名に相応しく濃い色をした葉の落とす陰は暗く、遠い街の喧騒は、その中まではけして入ってこようとしない。
薄い太陽のもとから、ほんの一歩足を踏み入れれば、息を詰めてしまいそうなほどに昏い、閑かな森。
そこに、少年は立っていた。
ほんの、あと一歩。
踏み出せば、薄い光を、その姿に浴びることが出来る。
けれど、少年は陰の中に居た。
それこそが、望み……自分の選んだ位置なのだと、言いたげに。
幼い足は、もうどのくらいの時を、微動だにもせず過ごしてきたのか。
少年らしくまだかっちりとした線を描くふくらはぎは、晒された風の冷たさに赤く染まっていた。
時折、何かを探すようにふっと頭が揺れ、引き結ばれた口唇に力が入る。
幾分和らいだ、それでも十分に冷たい風に肌を撫でられようと、ものともしないのか、それとも、すでに寒いと感じる感覚さえも凍えてしまっているのか。
人形、とは見えずとも、ひたすら森の外を見据え、そのくせ一歩の距離すら憚るようにただ立ち尽くす少年は、まるで森の、森にしか住めぬ生き物か、さもなくば陰の中の召し人のように見えた。
昇り、そして徐々に翳る陽など係わりはないと言いたげに、少年は待っている。
きゅっと引き結んだ口唇に、その名を乗せることもなく。
赤く染まり、また色を失っていく身体をかえりみることもなく。
すべての意識と、機能を、森の外に向けて。
目は、少年へと向かい、少年から去るただひとつの道だけを追い。
耳は、聞きなれた森の音など一顧だにせず。
ただひとりだけを、待っている。
いくらの時を、そうやってやり過ごしたのか、ふと気が付けば、痛々しいほどに赤く染まってしまっていた少年の肌をさらに塗りこめようとするかのような赤い光……夕暮れの、おかしなほどに鮮やかな光が、じわりじわりと足元を侵しはじめていた。
少しずつ、少しずつ。
道を辿り、そろそろと少年に触れようとでも言うように、傾いていく太陽はその赤い触手を森の中へとすすめていく。
それでも、少年は動かない。
思い出したように、軽く拳に握った、赤く腫れんばかりの指に時折力を込めるだけで。
春とは名のみの、未だ冷たい風が頬を撫でる。
やがて、森を浸そうとしていた太陽の名残の赤光も、少年の足元にはわずか届かないままに、悔しげにその色を褪せさせていく。
最初はゆるゆると、そして糸が切れたように、すとんと。
代わって、森へと続くただひとつの道を覆うのは先とは正反対のような黄昏の蒼。
それが痛々しく染まった少年の肌の色さえ隠し、森の中へと沈める。
夕暮れの赤が姿を消した天球を覆うのは、霞んだ藍と、ささやかに散らばる、気の早い星の明かり。
街を見下ろせば、ぽつりぽつりと家の明かりが灯りはじめる頃、それでも、自分を待つ明かりなどはないと言うように、少年は黒い森に抱かれ、佇むだけ。
遠い灯に、目を細めることはない。
残り少なくなってきた薪を放り込む、暖かい暖炉を思うこともない。
少年が待っているのは、ただひとり。
ふっと、何かに促されたように、その頭が上がる。
知らぬ者にでもありありと解るであろう、全身の緊張。
冷えて固まった、薄い口唇が震えるように、何がしか、カタチを刻む。
――― Lehrer ―――
あるかなきかの月の光を返すように、翠の虹彩がわずか、色を放った。
かつん。と。
人よりも優れた、少年の耳が音を拾う。
かつん。かつん。
それが錯覚でない証拠に、音は途切れず、徐々に大きく、近づいてさえ来て。
まるで今にも飛び出しそうに、少年の全身のばねが撓んだようだった。
それでも、一歩を、踏み出しはしない。
色を失った口唇が、それでも滑らかに、止まることなくただひとことを呟き続ける。
月の明かりさえ弾き返し、陰を落とす黒い森。
人を導く外灯さえ見えぬ、その入り口で、少年はひたすら待った。
先までやり過ごしていた時間よりもよほど短い、それでも耐え難いまでの、その空白を。
それを埋める、しずかな足音。
待ち望んでいた、気配。
規則正しく石畳を打っていた踵の音が、少年からわずかに間を置いた場所で、逡巡するように止まる。
「……ジェイド」
低い男の声が、少年を呼ぶ。
「……Lehrer」
驚くほどに静かな声で、少年が呟く。
その自分の声に融かされたように、一瞬ごとに濃くなりまさる夕闇に隠された赤い足が、一歩を踏み出す。
ようやく。
昏い森の中とも変わらなくなった石畳を、幼い足が踏む。
それを無言で見守っていた男は、ちいさな手が自分に伸ばされるのもまた、沈黙のもとに、ゆるす。
「……Lehrer」
もう身を震わせることも出来ないほどに寒さに侵されながら、それでも擦れない声に呼ばれて、男の腕が少年をとらえる。
風の吹く中を歩いてきて、冷え切っているはずの身体にさえ少年はつめたく、同時にまた、おかしなほどに、熱い。
「帰るぞ。ジェイド」
とん、と大きな手のひらが、少年の背を叩く。
「Ja,Lehrer」
促され、少年は闇の降りた石畳に背を向ける。
半日も見つめ続けてきた場所に、何ら興味を示さずに。
少年を包む黒い天球が、ざわりと風にそよぎ、寒々しい音を立てる。
その奥に彼らを待つのは、火も入っていない、大きな邸。
それでも、そこが、少年を覆う天球の要だった。
彼が待ち続けた、ただひとりの男と同じく。
草の芽吹く春は、遠くない。
それでも、まだ互いのぬくもりは、惜しくて。
求めても、ゆるされる、恋しい時間。
そんな、早春の日。