琅干 天球03
おぼえたのは、入り混じったたくさんの感情。
喜びと、戸惑いと、不安と、
よろこびと、よろこびと、よろこびと。
すべて塗りつぶした喜びの中に、それでも。
戸惑いがあったのは、確かだった。
A/琅干
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白い陶器のバスタブを滑った泡が、ひとつ残らず排水口に吸い込まれるのを確認して。
ようやくジェイドは、のろのろと視線を移した。
それまで見たこともないくらいに広い浴室に、たったひとりであることを確認して、バスタブの外に乗り出し、そこに置かれたいくつかのボトルを眺める。
ひとつは洗髪剤であると分かったが、その他のものが一体何であるのか、少年には見当が付かなかった。
身体ならば石鹸で洗ったし、それ以外に風呂場に必要そうなものと言えば、彼には義父の使っていた髭剃り用のクリームくらいしか思いつかない。
もちろんそんなものはジェイドには不要で、だから少年は洗髪剤のボトル以外には手を触れないことにした。
いい匂いのする液体を手にとって、それで頭と髪とをこすり始める。
髪が泡だらけになっていく感覚は心地よく、時どき鼻先を漂っていくシャボン玉を眺めてジェイドは少し気分が明るくなったが、それでも先ほど髪に触れられたことが心から消えず、瞳に浮かびかけた光は、また奥へと沈んでしまった。
泡だらけになった前髪を上目遣いに眺めて、彼は思う。
別に、髪に触れられるのが嫌だったわけでは、ない。
ただ……あの男の手は、大きかった。
それは当たり前のことなのだ。彼は超人で、何よりも、れっきとした大人なのだから。
ジェイドの頭など一掴みに出来るような、大きな手。それを持っていても、どこも不思議ではない。
思い出してしまった、だけで。
自分よりもずっと大きな手で、無遠慮に髪を洗われる。
それは、本当は、とてもとても、馴染んだ感覚だった。
ジェイドだって、もう小さな子どもではないのだし、自分の身体くらい、当たり前に自分で洗える。
それでも、いつも彼の髪を洗いたがったのだ。
大きな手をした、ジェイドの義父は。
―――ほら、こっちへおいで。髪を洗ってやる。
そう言って、少々強引に洗われるのがいつものことだった。
もう大きいのだから、とジェイドは毎回恥ずかしがったが、義父は全然構わずに彼の髪を泡だらけにし、終いには頭から湯をかぶせた。
恥ずかしかったけれど……それは、確かに幸福な記憶のひとつで。
だから、ジェイドは髪を洗われることを拒絶した。
彼の髪を洗うのは、少年が父親にだけ許した特権だったのだから。
扉が、古めかしいきしみを響かせて、細く開いた。
暗い廊下を背景に、ちいさな頭がそこからのぞく。
「……上がったのか?」
問いかければ、一瞬ためらった後に、細い身体の少年が滑り込むように室内に入ってきた。
悲鳴のような音をさせて、その背後で扉が閉まる。
「こっちへ」
ぺたぺたと、軽い足音をさせて近づいてきた少年の姿がテーブルに灯した蝋燭の赤い光に照らされ―――ブロッケンJr.は、軍帽の下で驚くように目を見張った。
着替え代わりに少々サイズの合わない服を着た少年の髪は、さっきまではくすんだアッシュ・ブラウンのように見えていたのだが、濡れて蝋燭の光を弾くそれが今は、濃い金色に輝いている。
これでは超人と言うよりも、聖歌隊員とでも言ったほうが似合いそうだ、などと考えて、慌ててその想像を振り払った。
この少年は、これから自分が鍛えていく、ただ一人の弟子なのだから。
「……随分きれいになったもんだな」
だから、そう言った彼に、他意はなかった。
愛らしい、と言ってしまって問題のない容姿を持った少年……かつてこの地で最も高貴とされた純血アーリア種を彷彿とさせる色合いのその金の髪と、恐らく名の由来となったのだろう翠の瞳を、しげしげと眺める。
琅干―――インペリアルジェイド。
澄んだ虹彩の色合いに、思わずクロムの輝きに彩られた宝石を連想して、ブロッケンJr.はふと気づいた。
宝石、無機物。
まさにそれを嵌め込んだかのような眼差しをして、目の前の少年が自分を見返している。
―――Nein!!
脳裏に再生される高い声に、そうか、と彼は納得した。
目深にかぶった軍帽の下で目を細め、まあいい、それも仕方ない―――と考える。
けして、このこちらに懐いてはいない少年を是、としたわけではなかったけれど。
そう、するしかないのだと。どこかで解っていたのだろう。
望むのは、在り方。
果たされなかったこと、
果たすべきこと。
それだけでいいと……
思い決めていた。
それでも、おぼえたのは、
まぶしいほどの期待と。
おぞましいほどの、よろこび。