飾紅 天球04
幸せだった。
とても幸せだったのだ。
強く。
つよく、つよく、つよく、つよく。
それだけで、走れた。
走っていられたのだ。
飾り
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まだ成長しきらない幼い皮膚が、日々新しい傷に塗り込められていくのは、当然のことだった。
ただでさえ過酷な訓練に加え、負傷に、痛みになれるためとして、師であるブロッケンJr.は、動かないよう命じた上で、ごく薄くではあるが、わざとゆっくりとジェイドの身体に斬りつけることすらあった。
そんな数えきれぬほどの傷でさえ。超人特有の回復力が、翌朝にはほとんど痕も残らぬほどに癒してしまう。
それでも、次第に硬く、つよくなっていく肌が。負った傷の数を物語っていた。
「腕を」
夜にもなれば、深い森の内に抱かれたこの邸は、まるで中世の昔にも遡ったかのような闇の支配を受ける。
かすかに室内をその闇から切り取る蝋燭の明かりの中、ジェイドはごく素直に、男の前に自らの腕を差し出した。
古めかしい軍服に包まれた太い腕がその半分にもならないようなほそい腕を引き寄せる。
空いた片手で男が器用に陶製の器の蓋を開けると、鼻をつく薬の匂いが蝋燭のかぼそい炎をゆらめかせた。
「無理をしたようだな」
白い肌に薬を塗りながら、独り言のように男がつぶやく。
その視線の先にあるほそい腕は、薬がしみるのか、時折びくりと震えはするが、逃げようとはしない。
「お前はまだ身体ができてはいない」
少年の肌よりもまだ白い包帯をその腕に巻き、男は言う。
「明日の訓練内容は変更だ。いいな」
かつん、とかすかな音をさせて、器の蓋が閉められる。
その音に誘われたようにゆるゆると頭を上げた少年の顔の中で、クロムの輝きを散りばめたような色の瞳が、蝋燭の光を受けて赤く際立ち、男を射た。
「……不満か?」
ゆったりと背を椅子にもたれさせて、男が問う。
細められた目の中に、けれどあるはずの不興の意はなく、少年はかえって戸惑い、瞳を揺らす。
組んだ足の上にゆるく握った拳を置き、男はそんな少年に傲然と告げた。
「お前は強くなりたいと言った。そのためにここへ来た。ならば、従え」
ふっと、少年の翠の瞳が閉じられる。
力を抜いたように。
幼い口唇が、声を紡いだ。
「ja」
従順な答え。
包帯に巻かれた腕を押さえ、少年は軽く頭を下げた。
そして、そのまま、男の前から辞するべく、ほそい足を引く。
いつもなら、男はそれを無言で見守るだけで。
少年に束の間の安息が訪れる。
「ジェイド」
ただ、このとき。
まるで気まぐれのような気のなさで、男は彼を呼びとめた。
素直に振り向く少年を見下ろして、ふと男は目をほそめる。
「お前は、強くなりたいと言ったな」
「ja, Lehrer」
惑いの見える瞳と、惑いのない応え。
「では、問おう。お前の言う強さとは、何だ?」
未だ十も数えないようなこどもには、酷な質問であったと、言えるかもしれない。
例え十分に人生経験を得た大人であっても。
いや、問いを発した本人―――かつて、誰よりも「強さ」を求めたこの男ですら、「それ」が何であるのか、など、しかと分かっているのかどうか、計り難い。
少年が応えられない可能性など、男としても、先刻承知であった。
それでも、問うたのだ。
「……………………」
藍の瞳が、自分の胸にも届かぬ少年を、見据える。
「……………………だれにも」
ふと、翠の瞳が遥かに高い天井を見上げた。
そこにわだかまる闇に、まぶたを重たげに上下させ、少年の幼く乾いた口唇が柔らかなかたちを刻む。
―――笑ったのだ。
「だれにも、侵されないことです」
男は瞠目する。
いかようにして、このこどもはそんな言葉を知ったものなのか。
「二度と、だれにも。そう、決めたから」
満足げに、少年は笑う。
口唇も、瞳もそのままに、少年は視線をうつす。
にこりと笑い、ジェイドはブロッケンJr.に、はっきりと意志を向けた。
「僕は、強くなる」
金の髪と、翠の瞳が蝋燭に映えてあかく輝く。
男もまた、口唇に笑みを刻んだ。
「そうか」
ひとつ。
この夜、彼らの間に、了解されたのだ。
走る。
はしる、はしる、はしる、はしる
さながら、滑車を回す鼠のように。
ただ、ひそやかに、断ち切り、捻じって、繋いで、
だれも、知らぬままに、
絶つ。