金魚 天球06
あかい、金魚。
金魚を、いっぴき。
金魚
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殻/1
かあさん、かあさん、どこへ行た。
あかい金魚と遊びませう。
口の端から流れる血もそのままに、ジェイドは男に対峙した。
まるで頭から何からすべて、誰かに掴まれ、揺さぶられてでもいるかのように、視点が定まらない。
それでも、必死にまぶたに力を込め、目の前にそびえる男と、その視線とを、押し返そうとは、する。
見開いた目に、ゆっくりと振り上げられる太い腕が、うつった。
衝撃。
ちいさな身体が、沈んだ。
かあさんかえらぬ、さびしいな。
金魚をいっぴき、つきころす。
「ジェイド、血を拭っておけ」
言われて、初めて気づいたように、少年は荒い息のまま、ぐいと手の甲で口元をぬぐう。
口内の柔らかい肉からにじみ出たそれは、あざやかな紅で白い肌を彩ったが……ふと。
それを眺めたジェイドが、つぶやいた。
「レーラァ。僕は、血って、もっと赤いものだと、思ってました」
つぅ、と指で伸ばし、手の甲に広く、塗りつける。
「おばさんたちの血は、もっと赤かったから」
まだまだかえらぬ、くやしいな。
金魚をにひき、しめころす。
目にうつる、あか。
うす蒼く、すべてが黄昏に塗りこまれていく中で、その色だけが、あざやかに、うつくしく、躍り上がって、見えた。
植え込み。
煉瓦。
テーブル。
それを包んだ、ほのお。
せんぶを染めていた、あか。
翠の瞳の奥にひそむ、あか。
なぜなぜ帰らぬ、さびしいな。
金魚を3匹、ねぢころす。
夜ともなればこの邸を覆う、息をつめたような闇。
それを退け、うすぼんやりと邸の内を浮かび上がらせるのは、ただ、あえかな蝋燭の明かり。
現代のものとも思えない、と、もし誰かが見ようものなら言ったであろう。
それでも、ジェイドは別段不自由を感じたこともないし、ちいさな炎に柔らかく部屋が照らされているのは嫌いではなかった。
金属製の盥が、ちゃぷんと涼しげな音をさせる。
中に満たした水をこぼさないように、盥を抱え直して、ジェイドは重々しい扉を開いた。
いつものように。
涙がこぼれる、日は暮れる。
赤い金魚も、しぬ しぬ。
しゅい、しゅい、と、ちいさな音がひびく。
ゆったりと安楽椅子に身をもたれさせ、傍らには湯気のたつカップを置いて、男はそれを眺めていた。
水に濡れた手が、鋼の色に光る刃を、何度も、何度も、砥石にこすりつける。
ほんのわずかの、切れ味の鈍さもゆるさないと言うように、執拗なまでに、少年は念入りに、サーベルを研いでいた。
本来鈍い銀色のはずのその表面が、次第に輝きを増し、澄んでいくのを、男はやはり無感動に、見ている。
切っ先は十分に尖らせて、そこから剣身の3分の1までを占める両刃の部分、そしてそこから鍔までの片刃の部分を紙のように薄く、仕上げて……その作業を、部屋のほぼ中央に据えられたテーブルに置かれた燭台の火が、照らしている。
本来は何本もの蝋燭を立てるためにつくられたその精緻な細工のほどこされた燭台に、今、灯る炎は1本のみ。
頼りない明かりは部屋のすみずみまでを光の下にさらすことは出来なくても、下を向いて、一心にサーベルを研ぐ少年の姿くらいは、容易に映し出すことができる。
そして、男にとっては……少年にとっても、それで、十分なのだ。
しゅい、と、軽い音をひびかせて、ようやく少年が手を止める。
剣身を濡らす水を拭い、それを目の前にかざして、出来を確かめるように、目をほそめた。
鋼色に光る、刃。
ふと。
惹かれるように、少年がその滑らかな表面に、指を伸ばした。
たやすく皮膚を、肉を裂くために研ぎ澄まされた、少年が研ぎ澄まさせた、刃。
つぅ、と。
蝋燭の明かりに照らされた白い指を、赤いばかりの流れが、伝った。
「……そうなんですね、レーラァ」
眉ひとつ動かさぬままにそれを眺めて、少年がつぶやく。
「深いところを流れる血は、こんなに赤いんですね。
だから、あんなに赤かったんだ」
たよりない炎が、少年の金糸のような髪を、あかく、輝かせる。
ほそい手首から、肘までを伝い、ぱたりと床に翳りを落とす、少年の血。
「僕の血も、やっぱり、おんなじくらい、あかく見えるんですね」
にこりと。
少年は、男を見上げて、わらった。
「……ジェイド」
「はい、レーラァ」
「手当ては忘れるな。明日も訓練は続く」
「はい。レーラァ」
立ち上がった男の影に隠され、忘れ去られた、湯気の消えたカップ。
気づいた少年がそれに手を伸ばせば、止まる気配も見せない血が、その中にしたたり落ちる。
だれもいない部屋で。
当たり前のような顔をして、ジェイドは、それを飲み干した。
かあさんこわいよ、目がひかる。
ぴかぴか、金魚の目がひかる。
(北原白秋「金魚」より)