jentle songs
キィボードを叩く軽い音が、広い部屋に響いている。
ずいぶん長い時間、連続稼動を強いられているパソコンの苦しそうな駆動音と、空調ファンの回るかすかな軋み。
それだけが響く部屋にいると、妙な話ではあるが、まるで、水の底にでもいるような感覚を覚える。
預けた背に体重をかければ、少しだけキャスターの動く感触と、それに対する抗議のような、カラ、という音。
すぐに元の位置に戻された椅子の足に押されて、熱斗は不満げに上を見上げた。
「ケチ」
「誰がだ。邪魔をするなと言っただろう」
「してないじゃん」
「だったら動くな」
拗ねるように背を丸めてみるが、こちらを見もしない彼は、そんなことおかまいなしに、もうずいぶん長い間、パソコンの画面に釘付け。
空調がしっかりしているから冷たくはないし、掃除が行き届いているから居心地悪くはないものの、くつろぐにはどう考えても不向きなこの場所に熱斗が居座ってから、すでに小一時間。
その間彼は一度たりともこちらに視線をくれなかったし、少しでも無駄に動いたりすれば、すぐさま文句が飛んできたけれど。
それでも、熱斗がここにいることについては、何も言わない。
「えんざーん。あとどれくらい?」
「……1時間、はかかるな」
「ふーん」
ちらりと素っ気ない横顔を逆さまに見上げて、熱斗は背中に思いっきり体重を預けた。
また文句を言われるかな、と少しだけ思ったけれど、まぁいいやと思って、楽になれる姿勢を探す。
何しろ、これからまだ少なくとも1時間はこのまま、待っていなくてはならないのだから。
「副社長、失礼してもよろしいでしょうか」
「入ってくれ」
「お茶をお持ちいたしましたが……」
「ああ、すまないな」
「あの、副社長?」
「どうした」
「先ほどまでいらしていたお友達は、お帰りですか?」
「いや。いるぞ」
「は? しかし」
「気にしないでくれ。その辺りに置いておいてくれればいい」
「はあ……」
最初に部屋に通したときには、確かにソファに陣取っていたはずの少年の姿が部屋のどこにも見えず、2つのカップを運んできた秘書は、一人で首をかしげた。
広い副社長室の中に見えるのは、大きなデスクとパソコンとそこに座る大人びた少年、誰もいない応接セットに観葉植物。
一応小学校高学年にあたる子どもが隠れられるようなスペースはなく、どう見ても、そこには部屋の主たる伊集院炎山以外の人間がいるようには思えない。
洗面所にでも行っているのだろうか、と思いながらデスクまで飲み物を運べば、小柄な上司はちらりと自分の足もとを見下ろしたように見えたけれど、すぐに視線をパソコンのディスプレイに戻して、作業に戻ってしまった。
不審さを拭えないまま一礼して下がり、自分の机に戻ってきたところで、秘書はふと、気づいた。
あの物の少ない副社長室で、一か所だけ、そういえば隠れられそうな場所がある。
大人はどうだか分からないが、子どもならば、余裕でその姿を隠してしまえる場所。
カタカタと、ひっきりなしに響いていたキィボードを叩く音が、不意に途切れる。
固まってしまった身体を伸ばそうとしかけて、はっとしたように炎山は動きを止めた。
ため息をつきながら見下ろす自分の足元―――正確には、自分が座る椅子の足。
そこに背を預けて、1時間ほど前から一人の少年が平和に眠りこけている。
よくもずり落ちないものだ、という見事なバランスで寄りかかっている熱斗は、もし少しでもキャスターが動けばすぐに床に倒れこんでしまうだろう。
いっそそうしてやりたいかもしれない、と考えないでもなかったが、炎山は結局関節をほぐすことを諦めて、代わりに冷めてきたカップに手を伸ばす。
秘書が運んでくれたもうひとつのカップには、熱斗好みの甘さが追加されていたけれど、おそらくこれが温かいうちに彼が目を覚ますことはないだろう。
幸か不幸か、今処理している作業が終わるには、もう少しかかる。
知らずに綻ぶ顔を再びディスプレイに向けて、小さな寝息を聞きながら炎山は仕事を再開した。
キィボードを叩く軽い音が、広い部屋に響いている。
ずいぶん長い時間、連続稼動を強いられているパソコンの苦しそうな駆動音と、空調ファンの回るかすかな軋み。
それだけが響く部屋にいると、妙な話ではあるが、まるで、水の底にでもいるような感覚を覚える。
少しだけ、何かに気を遣うように静かになったキィボードの音と、それに隠れるように、守られるように細い、寝息が混ざる
ゆらゆらと、温かい何かに包まれているような、不思議なその時間。
作品名:jentle songs 作家名:物体もじ。