タナトスの恋
「おい、豪」
ふっと思い出したように、巧が顔を上げた。野球以外は見えないよう作られた瞳がかすかに揺れる。
「なんじゃ?」
「少し寒いから窓を閉めてもいいか?」
「ああ、構わん」
承諾を得ると巧は立ち上がり、窓を閉めた。きちんと鍵をして、カーテンをする。そうすると急に虫の声や風の音が聞こえなくなる。部屋のドアも閉じられているので、まるで世界がここだけ急に切り取られたかのような錯覚を覚える。
巧の乏しい表情が、少しだけ照れたふうになる。いつもは抉るように鋭い視線が和らぎ熱を持ってこちらを見据えてくる。寂しいときの構ってほしいポーズ。必要以上の言葉を持ち合わせていない巧の、精一杯の感情表現だ。
巧を前にして、何人も堕ちていった。誰も彼もが巧を意識する。だが、巧に意識されるのは自分ただ一人だけだ。奇妙な食物連鎖が完成している。清廉さとは無縁の、気持ちの悪い感情。それだけがサイクルの中に確固たる事実として在り続ける。誰もが無冠の姫に踊らされている。皆ピエロだ。
「どうかしたか?」
わざとらしく声をかけると巧もわざとらしく手にしていた野球雑誌から手を離した。
「構え」
「ん、もう飽きたのか」
「せっかくおまえといるのに、何もしないなんて損だろ。雑誌はいつでも読める」
「何もしない、って?」
言いたいことは理解しているが敢えて問い掛けると、巧は蠱惑的に笑った。嬉しいときには笑えないくせに、自分が玩具を手に入れたいときには惜しげもなく笑ってみせる。その程度の損得を考えているときは、彼が本物の人間のように思えた。特に野球をしているときの巧は、化け物のようにしか感じられない。
コイツと出会ったことを最高の幸運だと思ったときもあった。
コイツとバッテリーが組めることを最高だと感じたこともあった。
野球を、否、ボールを投げることしか知らない巧を尊敬したこともあった。
あの冬の終わりの日のことが、何もかも遠い夢のように思える。
土手沿いを走る巧の目に留まってしまったことが、何よりの不幸だったのだ。
「決まってるだろ」
まだわからないのかと言わんばかりに、巧が溜め息をつく。
「おまえがしてほしいこと――――なんでもしてやるよ」
だからおれを手放すなと、蒼色の声が惑わせる。
巧は自覚している。何も知らないが、何もわかっていないわけではない。自分のボールを投げる能力がさまざまな人を追い詰めたり歪ませたり狂わせたり、そういうことをしてきたことを。残念なことにそれに罪悪感を覚える機能はないが、自分が魅力的なモノであると彼は知っているのだ。
すべての球児が原田巧の前にひれ伏すだろうことを覚えてしまった。
誰のせいで? まぎれもなく自分のせいだ。突出しすぎたせいで他人が視界に入らない巧の世界で、唯一巧の領域に踏み込み、巧に堕とされてしまった永倉豪のせいだ。
こうなれば、誰にも止められないだろう。野球の世界で、巧は猛威を振るうに違いない。これから先、何千人という球児たちの夢を引き裂いていくのが見える。
確信に腹の奥がじんわり焦げる。巧の隣にいれば、試合をしてもいないのに、勝利の愉悦が味わえる。たとえるなら無限に動力の切れない暴走列車と、それを好きなように操る車掌。心行くまで暴れたらいい。
「そんな情熱的なこと言われたら、迷うなぁ」
「そんなもんか」
「なんかいい案はないじゃろか」
答えは決まっていたが、覗き込んでくる巧を焦らすようにわざと考え込んだ。
いつから自分はこんなふうに変わってしまったのか、自問しながら。
きっかけは横手のトリックスターの術中に嵌まってしまったことなのだが、それは最後の一歩を後押ししただけに過ぎない。埋められない溝、越えられない実力差に気づいてしまったときから、ちょっとずつ確実に壊れていったのだろう。
巧は好きだ。雛鳥のようで、かわいいと思う。間違いなく恋愛感情だ。これは言い切れる。
巧も自分を慕ってくれている。それが恋愛感情かどうかまではわからないが、少なくとも永倉豪を欲しているのは知っている。もうそれで十分だ。
「お、決まったぞ」
「何?」
「今度、試合があるじゃろ。うちが再三申し込んで、ようやっとオーケーくれた学校とのやつ」
「あるけど、それが?」
「勝ちたいな」
簡潔に告げると、巧がフンと鼻を鳴らした。
「それじゃだめだ」
「なんでじゃ」
「そんなわかりきったことじゃつまらないだろ。違うことにしろ」
自分の勝利をこれっぽっちも疑わない傲慢。化け物はこうでなくちゃいけない。
色素の薄い巧の短髪を撫で、指で襟足をくすぐる。肩には触れないように首筋で手を止め、離す。瞳を覗き込んで確認してから、そうっと、壊れ物を扱うように左手に触れる。多少強張ったが、制止はなかった。
「じゃこうしよう」
「うん」
「巧の気持ちが聞きたい。おまえ、おれのことどう思っとるんじゃ?」
「どうって」
巧は何度か瞬きをし、それから短く答えた。
「おれはおまえのものだ。……これで満足か、豪?」
好きとか嫌いとか、そういう俗物的な返事は最初から予想していない。
むしろ好きとか嫌いとか言われたほうが、よっぽど満足できるのに。
「ああ、満たされる。腹一杯じゃ」
「そうか」
子供のように頷いた巧が、呟いた。
してほしいこと、なんでもしてやるって言ったのにも関わらず。
巧には豪が本当にしてほしいことは、永遠に理解できないのだろう。
こんな形ではなく、まっとうに、劣等感を抱えることなく、他人を見下したりせず、誰にでも「おれたちは最高の恋をしているんだ」と胸をはって言えるような二人になりたいんだなんて――――それこそ、ありふれた凡人の発想に過ぎない。
彼の狭い世界を侵すような愛など、どこにも在りはしないのだ。