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言えない言葉

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この静かな部屋を、公孫勝はそれなりに気に入っていた。
 怪我のために、床についていた。高廉との戦いで負った、腿の骨の骨折だ。林冲の処置と、安道全の治療で、あとは骨が繋がるのを安静にして待っているだけだ。
 まだ平癒していない状態だったが、人の出入りがうるさい養生所を出て、聚義庁の一室を使うことにした。入山の頃にあてがわれた部屋だ。安道全も、治る見込みのたった患者には興味がなく、二つ返事で養生所の外へ出ることを承知した。今は、安道全の弟子が、時々薬を届けたり、様子を見に来たりする。いつも無表情で皮肉屋の公孫勝の部屋に長居するわけもなく、弟子は用が終わればそそくさと出ていく。
 この部屋に、こんなに長く滞在するのは久しぶりだ。
 聚義庁も、呉用の仕事部屋などは、文治省の連中も多くて、何かと騒がしい。離れている公孫勝の部屋は、時折遠くで人の声はするが、静かなものだった。
 その静寂は、突然荒々しく破られた。
「みんなが忙しくしているって時に、毎日寝てばかりとは、いいご身分だな、公孫勝?」
 挨拶より先に皮肉をいいつつ、林冲が入ってきた。
「お前も、こんな処で油を売っているだろう」
 公孫勝が寝台から半身を起こす。脚は、まだ動かない。
 ふん、と鼻を鳴らしながら、その公孫勝の脇に、林冲はどっかりと腰を下ろした。
「たまたま通りかかったから、寄ってみただけだ」
 普段、自分は会議すら滅多に出ず、最近は騎馬隊からは索超が会議に出ていることが多い。そんな林冲が、何の用でたまたま通りかかるというのか。おそらく、公孫勝を見舞うために、わざわざ梁山泊にきたのだろう。だが、そうとは言わない。素直ではない物言いも、いつもの林冲だった。
 公孫勝はいつの間にか、乱暴な林冲の言葉の裏側を、読み取れるようになっていた。元来、単純な男だ。長く接していれば、おのずと分かるようになる。馬麟なども、読み取れるのだろう。
 林冲が言葉を続けた。
「それに、今日は燕青が騎馬隊の連中に、体術の稽古をつけている。俺はやることがない」
 燕青は、少し前におかしな男を連れて、北京大名府から戻っていた。
「孔亮が、死んだな」
 林冲が、呟くように言った。
「ああ」
 公孫勝も、短く答えた。
 昨日、呉用から報告を受けたばかりだった。自分がいない致死軍を率いていた孔亮は、燕青の北京大名府の作戦に加わり、深手を負った。動けない孔亮を連れて撤退するほどの余裕はなく、孔亮に促されて燕青が止めを刺した。
 そして燕青は、捕えた男を自分の手で拷問にかけると言う。孔亮を死なせたのだから、自分でやりたい、と言った。盧俊義のことも、あるのだろう。呉用が公孫勝の名前を出しても、譲らなかったらしい。
 燕青は、これで心の闇を知るだろう。闇を知る者は、強い。燕青は、敵にとってますます手ごわい男になるはずだ。
 林冲は、おもむろに懐から小さな包みを取り出し、公孫勝の手に乗せた。何やら甘い匂いがする。
「孔亮は、菓子の振り売りをして北京大名府に潜伏していた。その残りの菓子だそうだ」
 包みを開けると、小さな菓子がいくつか入っていた。
「孔亮の置き土産だと思って、貰っておけ」
 公孫勝は、無言でじっと菓子を見つめた。その公孫勝を、林冲が見つめている。
 高廉軍との戦いでは、劉唐と楊林が死に、公孫勝は重傷を負った。致死軍・飛竜軍の半分が死ぬ激戦だった。その戦いを生き延びた孔亮は、似合わない諜報活動の果てに、命を落とした。
 こうして、公孫勝の周囲は屍に囲まれる。死んでいった同志、戦場で自ら止めを刺した部下、その屍の上に、自分は立っている。戦だ、と自分を納得させることはできても、その思いは拭いきれなかった。
 なぜ、自分は死なないのか。なぜ生き残って、死んでいく同志を見続けなければならないのか。
 死んでいった者たちを背負って、体を引きずりながら生きている。
 そんな罪の意識のようなものが、絶えず公孫勝に重くのしかかっていた。
 林冲が、公孫勝の手の中の菓子の一つをつまみ、公孫勝の口元へ運んだ。
「ほら、食えよ」
 麦の粉を、砂糖や蜂蜜や脂で練って焼いたもののようだ。素直に口を開くと、林冲の指が菓子を押しこんでくる。指先が、歯に当たった。
 甘い味が、口に広がっていく。
 黙って菓子を食う公孫勝を見つめていた林冲が、公孫勝の頬を手の甲で撫でた。
「あの時、間に合わないと思った」
 林冲が低く呟いた。
「敵の騎馬隊の最初の一撃には、間に合わない。どんなに百里風を駆けさせてもだ。俺は、あんなに全力で駆けさせたのは、初めてかもしれん」
 公孫勝の頬を、林冲の指がさらりとした感触を残しながら何度も撫でる。
「最初の攻撃だけは、持ちこたえてくれと願った。そうすれば、俺たちは追いつける。なんとか、間に合った」
 林冲の指が、こめかみや、耳、唇の際を撫でる。包みこまれるような、やさしい動きだった。
「劉唐や楊林は、助けられなかったが」
 林冲は、そこで口をつぐんだ。
 林冲の言葉に、皮肉の響きはない。二人きりの時だけ、時折、素直な言葉を吐く。それでも、思っていることの、ほんの一部だけだ。大抵、途中で話すのをやめてしまう。
 今も、そうだ。
 本当なら、続く言葉があったはずだ。
 その言葉は、公孫勝が今一番、聞きたい言葉だろう。
 林冲は、それを分かっていて、言わないのかもしれない。
 顔に添えられた掌から、林冲の体温が伝わってくる。温もりを感じられるのも、生きているからこそだ。それだけでいい。
 林冲の顔が近づいて、唇か重ねられる。柔らかく吸われ、小さく音がなった。
 胸のあたりが、温かくなる。
 お前が生きていて、よかった。
 口にすることはなかった林冲の言葉が、胸の中で聞こえた。



end
作品名:言えない言葉 作家名:いせ