ごめんねダーリン
喧嘩の原因なんて、今は覚えていないけれど。
バスルームでひとり、ぽちゃん、響く湿り気。
思わず零した溜息が、反響されてやたらと耳に付く。
あの空間が嫌で、あの空気が嫌で
何より、あの綺麗な黒い眼がこっちを見ようともしないのが何より嫌で。
喚いても騒いでもいつものような反応は臨めなくて、何を考えているのかとか誰
を思っているのかとか、もう、心が千切れそうになった。
逃げ込むようにして此処に来たのは良いのだけれど、どうにも頭が上手く働かな
い。
その所為もあってか、まだ湯船に湯は半分しか溜まっていないことにも気付けな
かった。
失態に苦笑いを零しても、今更戻る訳にもいかなくて。
ぼんやりと落ち着かない視線をさ迷わせると、目に付いた入浴剤。
娯楽に頓着の無い彼が、自分と共に使うのだと嬉しそうにはにかみながら買って
きたそれ。
むしゃくしゃした気持ちをぶつけるように、その包装を裂いて大きめの塊を水面
へと叩き付けてやった。
途端溢れ出す噎せ返る程のローズとオレンジの香り、と‥
「‥うわ、これ泡風呂用かよ…」
流れ込む水流の勢いで溶け出した入浴剤が、空気と撹拌されてしゃぼんが浮かぶ
。
掻き回されていく浴槽を眺めながら、俺の頭の中みてぇだなぁなんて
思うのとは裏腹に、徐々に頭の中が冷えてきているのがわかった。
柑橘類のアロマ効果か?なんて。
柄じゃねーっつーの。
‥あぁ、そうだ、
彼のそんな言葉に、俺は酷く傷付いたんだった。
それこそ柄じゃねーって。
「‥ばか蘇芳、」
ぽつり零れた言葉は、ぶわぶわといつまでも増えていく泡に吸い込まれ消えた。
流石にもう浴槽から溢れそうになって、蛇口を捻って湯を止める。
この感情にも、蛇口が付いていれば良いのに。そんな馬鹿な事を思いながら。
ゆっくりと沈める爪先、浸る肌色。外界との境界が曖昧になって、いや、そう見
えるだけなのだけれど、ぼやけるラインに安堵感。
あぁ、そうだな。
ぱちん、弾けたしゃぼんに笑みを一つ。
輪郭さえ曖昧になってしまえれば、交じり合ってしまえるかもしれない。
いつの間にかすっかり冷え切ってしまっていた身体に、じわりじわりと温かさが
染みる。湿り気を帯びた腕を伸ばして、給湯器の呼び出しボタンを押して。
浴室の扉を、ほんの少し開けた。
近付いてくる足音に、もう心中はすっかりと靄が晴れていて
きっと浴室を覗き込んでくる彼を、無理矢理湯船に引きずり込んでやろう。
絡めた指先から、触れた唇から、溶け合って。
そしたら、きっと言えるから。
【 ごめんねダーリン 】