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桜が散るから

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数えで七つの夜のことを、お美代は今でも覚えている。それはおおっぴらに口の端に乗せられるような類のものではなかったので、忘れてしまってもおかしくはないはずだった。実際、赤ん坊だった小一郎はともかくとして、お美代と同い年のはずの太七はぼんやりとしか覚えていないと言い切っている。なのにお美代が前後の出来事までも鮮明に覚えているのは、家の中に毎年増えていく犬張子のせいだったかもしれないし、使われなくなったのに取り壊されることなく、今も線香の香りだけ留めている三番蔵のせいかもしれない。最も大きいのは、毎日通りかかるたびに行われる阿吽さんへの挨拶のせいのような気もする。
ともあれ、お美代は覚えているのだ。あの恐ろしさを。哀しさを。暖かさを。

「わかんなきゃ、わかんないでいいよ」
あの、目の色を。

潮の香りが砂埃と混じっているのは江戸におなじみの光景だ。こんなにも水に溢れているのに、ここはいつも道が乾いていた。時折、思い出したように人々が軒先に水を撒く。ふわりと土が力を含む香りが満ちていく。そんな姿を見るようになったのは、ここ数日のことだった。
春が来たのだ。
ちらほらと落ちる花弁が薄青い空に彩りを添える。散りゆく桜を目の奥に焼き付けるかのように眺めていたお美代の背中に、のんびりとした声がかかった。
「おうい、どうした?」
振り返ったお美代は笑う。そうして手に持った重箱を高く掲げた。
「差し入れだよ!」
相変わらず、だらしのない恰好をした竹次郎は、その言葉を受けてはっきりと笑った。髷の結い方だけは変わったものの、透き通らない、春の空のような表情は、いつまでたっても変わらないような気がした。お美代はからころと下駄を鳴らしながら近づく。おろしたての着物の裾が春の風に舞った。それに竹兄が少しだけ目を細めた気がした。
「立派になったもんだよなぁ」
握り飯を頬張りながらの言葉を、お美代はクスクス笑うことで肯定した。兜八幡は今では立派に神社の顔をしている。この土地を守っていることには変わりはないが、真新しくなった本殿は、少しばかり近寄りがたくなったようにすら見える。もっとも、そんなにも大盤振る舞いをしたのは近江屋、つまりお美代の父であるが。境内の枝をきれいに払ったせいもあり、阿吽さんは今では落とし物に汚されることなく、美しい眼差しでここを見守っている。あの出来事から声を聴くことはなくなったが、それはお美代にははっきりとわかっていた。きっと、隣にいる人にも。
視線を向けると、竹次郎はがむしゃらに握り飯を平らげている。頬に飯粒をつけている様子は、まるで子供のようだ。自分よりも十以上も年が上のくせに。お美代が笑い出すと、竹兄はばつが悪そうに頭をかいて、笑った。のらりくらりと暮らしていけるほど、江戸の風は暖かくはないはずなのだが、竹次郎へはどうやら厳しくし損ねたらしい。のらりくらりと便利屋家業を続けていた竹次郎は、しかし飾り職人へとひょいと鞍を乗り換えた。
「このままの暮らしは気楽だけど、だからこそどうなるかわかんねぇから」
修行先を自分で決めてきた竹次郎は、答えになるようなならないようなことをひどく生真面目に呟いた。周囲はひとしきりぽかんと口を開けていたものの、いやはや、風任せではない生計の道をよくぞ見つけためでたいと修行へ入る竹次郎を歓迎した。すこうし、淋しそうな顔をしたのは近江屋へ招いたことのある父で、お美代はその横顔をぼんやりと見つめていた。近所の子供たちは竹兄がいなくなってしまったことを素直に顔に出していたが、本人は笑って「休みの日には、遊びに来るよ」と言い残し、あっさり山登屋から出て行った。それももう、昔のことだ。言葉通り、休みになると竹次郎は新黒門町に顔を出した。子供たちの面倒を見ていることが多かったが、必ず兜八幡へ足を向け、熱心にお参りするのが常だった。今日はそれに、掃除が付け加えられていると知り、こうしてお美代が差し入れに来たというわけだ。
鳥が高く鳴いている。今日は、本当に良い天気だ。お美代は大きく息を吸う。花の香りがふわりと舞った。「あぁ、本当に良い時期を選んだね」と父と母も笑っていた。
「ごちそうさん」
パンっと手を叩く音で我に返る。きれいに空になった重箱を前に、竹兄がそれこそ子供のように笑っている。境内の裏手での、ひっそりとした昼食は終わった。
「いや、うまかった。悪いなぁ」
「いいのよ。阿吽さんのお掃除って言ったら、差し入れしなくちゃあたしが父さんに怒られちゃうわ」
肩をすくめながら言うと、「ちげぇねぇ」と笑われる。相変わらずだ。相変わらずなのだ。満腹になった竹次郎は、よいしょ、と掛け声をかけながら伸びをすると、そのまま鳥居の方へと向かう。その後ろを何の気なしに追いかけたお美代だったが、チョイと下駄をひっかけてしまった。転ぶほどのものではない。しかし、小さく乱れた足音に、竹次郎はしっかりと気づいた。
「あんなにお転婆だったのになぁ」
けらけらと笑いながら、手を差し伸べる。一瞬だけ表情に迷ったことそ見透かされないように、お美代は注意深く怒った顔を作る。
「そういうことは言わないの」
「はいはい。もう立派な娘さんだもんな」
全くそんなことは思っていない、そんな口調で竹次郎は載せられたお美代の手をそうっと握った。
注意深く、注意深く。あぁ、もっと境内が広ければいいのに。
賽銭箱の手前で手は離された。阿吽さんが春の日に照らされている。きらきらと光る登土岐さざれをじぃっと見つめた。この色を、お美代はきっと忘れない。
手を離した代わりに、竹兄は阿吽さんの脇に置いた掃除道具を片手に取った。だらしなく着崩れた肩の線が、ふいに柔らかくなる。
「もう、嫁に行くくらいだもんなぁ」
懐かしい声音を、この調子を、お美代は絶対に忘れないのだろう。忘れない、代わりに間違えない。だから一度だけ、一度だけ言ってみたかった。
「あたしは、竹兄のお嫁になりたかったよ」
止まった背中が、何かを壊さないように慎重に振り返る。瞳の色を昔から変えないで、竹兄は笑いかけた。
「何か、言ったかぁ?」
お美代は薄紅色の空気にゆっくりと笑う。
「わかんなきゃ、いいよ」
そんなお美代を見て、微かに竹次郎の目が眩しげに細まった。過去から、もう二度と戻りはしないところからやってきた目をお美代は久しぶりに、見た。覚えている。あの、瞳。けれど竹兄はひっそりと笑って「そっか」と言ったきり、黙った。そうやって、自分たちは道を間違えることはないのだ。
お美代は少し足を速めて、竹兄の隣に立つ。そうして二人で近江屋への道を歩き始めた。

お美代は明日、蝋燭問屋の嫁になる。
作品名:桜が散るから 作家名:フミ