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篠原こはる
篠原こはる
novelistID. 11939
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手にするまでの長い話 お試し?

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1 手にするまでの長い話


 真夜中すぎ、仕事からようやく帰り着き寝室で煙草をくわえていると、時折自分がひどく傲慢で、醜く、滑稽な人間に思えてどうしようもなくなるときがある。季節は春の終わり頃か梅雨に向かう頃。部屋の隅に追いやられてすっかり忘れられたらストーブは、しまう予定を逃したままだ。窓の向こうは静かでどんな物音も響かせず、空は闇に満たされている。
その思いは何の前触れもなく、発作のように不意にやってくる。返済期日が迫っているのに一向に捕まらない滞納者だとか、もう少しで終わりそうなのに行き詰まって立ち往生しているとか、抹消してやりたい相手をうまく消すことができないだとか、そんなこととは関係ない。俺はいつだって、上手に物事を運ぶことができないのだから。
なんて自分は愚かで卑しいのだろう。無教養で見栄っ張りな上、節操のない浮かれ屋なんだろう。大勢の人を傷つけ、うんざりさせ、期待を裏切り、取り返しのつかない失敗をしでかしてきた。挙げ句、そばに居てくれただろうある人は、慎み深く無言のまま立ち去り、またある人は軽蔑の眼差しを隠そうともせず、捨て台詞を残して二度と姿を見せなかった。
世界中が自分に背を向けている。俺を愛してくれる人など誰もいない。俺のそばで笑ってくれる人など一人もいない――。
俺はくわえたまま火も点けていなかった煙草を、そっと握りつぶした。


+++


 その時、横顔を見やりながら俺は、竜ヶ峰が実はとても愛らしい生き物だということに気が付いた。目は大きさばかりが目立ち、唇は大きなものなど咀嚼できないかのように小さく、染め抜いたことすらない髪はとても黒々と暑苦しいほどなのだけれど、きちんと観察すれば、その下から隠れた美しさや愛らしさが浮き上がってくるのだ。
「これ、全部食べれるんですか?」
 こちらに向かって竜ヶ峰が問いかける。その仕草さえ愛らしくあった。
「ん。これぐらい食えねえでどうするんだ」
 俺はすくい上げた銀色のスプーンが、溶けかけたアイスを更にひどい様へ変えていくのを見ていた。
 竜ヶ峰が呆れたように、ひとつ唸って観念したかのように目の前に広がる色とりどりの砂糖の塊へ、握り締めた銀の匙を突き刺していった。ひどく緩慢な動作ながら、ひとつまたひとつと、竜ヶ峰のほっそりした腕が砂糖菓子を崩していく。袖口から、はっとするほど白い肌がのぞいた。睫毛は少し下向き、黒目がちの瞳が余計に濡れているように見えた。


+++


「まだ、30分も経ってませんよ」
 寝過ごしたかと思い、慌てて腕の時計を確かめようとしている俺に、そいつは言った。
 どうして俺が30分近くも眠っていたことを知っているのだろう。一瞬不思議に思ったけれど、すぐに納得した。そいつが、最近よく会う知人のようなものだったからだ。会うたび、むず痒いような今まで家族からしか聞いたことのないような台詞で気遣われることがあった。なんでも、ちょうど見かけて風邪など引かないかと心配で見ていた、という。
 ベンチに座り直そうとした時、うまく体を動かすことができなくて寝覚めの一本でも、と取り出した煙草を取り落とした。そいつはそれを拾い上げて、俺の手に握らせた。
 あまりに自然な仕草だったので、お礼を言うのを忘れてしまうほどだった。すっと伸びた右腕と、微かに揺れた短い前髪の揺らめきが、いつまでもまぶたの裏側に残っていた。
「大丈夫ですか?」
 そいつは言った。優しさの塊のような声音だった。
「ああ、悪い……」
 もぞもぞと口ごもりながら、それだけしか俺は答えられなかった。
 優しい言葉の前でうまく喋れないのは、今に始まったことではないのにその時は一段と惨めな気分に陥った。品性と可愛らしさを併せ持ち、堂々としていながら謙虚でもあり、光を浴びて高いところから響いてくるかのようなそいつの声と、俺の声とではどうしようもなく不釣合いだった。
 唇はいつもよりも思うように動かず、強く噛みすぎた煙草が苦く染み入るようだ。舌は相変わらず喉の奥の方で縮こまっている。どんなに気取ったところで、今にも死にそうな臨終間近の男の声にしかならない。
 公園にいる他の人間は皆、無関心を装っていた。俺の姿と不自然な男子生徒の姿は嫌でも目に付くはずなのに、視線を向けようとする人は誰もいない。俺は自分の特異性を理解して以来、人々がどんな手順を踏んで俺から目を背け離れてゆくのか、十分に学んでしまっていた。けれど、そいつは違っていた。好奇心を理性で押さえ込もうともしなかったし、同情のため息もつかなかった。



 まぶたの裏側で明滅する光みたいに、強く強く残る残像がいつも、竜ヶ峰だった。