神が遣わしたもの
生まれたばかりの人間は、思っていたよりも重かった。
「妹だよ」と言って抱かされたその赤ん坊が、あたたかくて、やわらかくて、ずん、と腕にこたえた。
胸の奥がすこしへんだった。
少し前まではこの世にいなかったもの。なのに今はこの腕の中にいるもの。無防備で、なんの罪もないような顔をして。俺が誰かも知らないくせに、安心しきった顔をして。
人間を愛し始めたのは、そのときからだ。
だけど、すべての人間を同じように愛せたらそれでよかった。もう二度と、こんなふうに「誰か」の重みは感じたくはなかった。
そう、怖かったのかもしれない。俺がその命のすべてを負うということが。
俺は、怖かった。
中学生の面白そうな少年を見つけた。腕っぷしが強くて、リーダー気質で、だけど寂しそうな目をした少年。
いい玩具になると思った。
だからわざわざ、当時気に入っていた少女を使って遠まわしに近づいた。警戒心をあらわにしたその目を、信頼に変えるまではそう時間はかからなかった。
ただひとつ想定外だったのは、その少年の肉体まで手に入れてしまったということ。
はじめは、縋るような少年の瞳を、からかってやりたいだけだったのかもしれない。
けれど、いつの間にか追われているのは自分の方だった。
真っ直ぐな瞳から目をそらしたくなったのはいつからだろう。隣で寝ていてもどこか心を許そうとしないその背中を、肌を、さすってやりたいと思いはじめたのはいつからだろう。
こんな筈ではなかったのに。
俺は誰かの重さなんて、感じてはいけないのに。
だから、予定を早めた。
突き落とすだけ突き落として、俺の側から離れるように。
少年を、彼の大切なものと一緒に、めちゃくちゃに傷つけた。
時が経って、彼はまた俺の目の前にあわられた。
その真っ直ぐな瞳は、俺への憎しみで染められて。
(それでいい…)
愉快だった。その憎しみを忘れないでいてほしかった。
これ以上、俺の方から彼を突き放すことができないのなら、せめて彼は俺のことを憎み続けてくれなければいけなかった。
そう、願っていたのに。
今、隣で眠る彼を見た。
もう少年ではない、背も腕も顎のラインも、すっきりと伸びて大人になった。脱色を重ねた髪の毛は、金に近い色になってもなおさらさらと柔らかかった。
「全く、愚かだよ君は…」
笑いながら呟いた声は、かすかに震えていた。
あろうことかひとの腕を枕にして、馬鹿みたいに口を開けて、俺の胸の中ですやすやと寝息をたてて。なんの警戒心もなく、君は。
「いつからそんなに馬鹿になったんだい…」
かつての少年のような、小さな物音ひとつで目を覚ますことも、ベッドの揺れで飛び起きることもなく。
今この命が、俺の腕の上で、胸の中で、静かに息をしている。
「重いんだよ…」
目の奥が熱くなって、何かがこみ上げてきた。
ああ、なぜ神は、この俺のもとに彼を遣わした。
俺は望んでなかった。
こんな命の重さ、あたたかさなんて、欲しくない。
怖いんだよ。
俺は背負えない。
そんな人間じゃない。ただ面白ければいいのに。
「……っ」
この子は、いつからこんなに俺の側で安らいで眠るようになったんだろう。
なぜ俺は気がつかなかった。こんなことになるまで。
なぜ今俺は彼の手をずっと握っている。
なぜ、このぬくもりを手放せないんだ。
怖いのに。
はなせない。
「……」
ぴく、と長いまつげが揺れて、琥珀色の瞳が薄っすらと開いた。
「臨也さん……泣いてる……」
華奢な指が伸びてきて、頬に触れた。
俺の左手も、右手も、その彼に絡めとられていて、動けない。
「大丈夫だよ…いざやさん」
何がだよ。
何がだよ、正臣。
大丈夫じゃないのは君だよ。分かっているのか。
「…いつ殺されたって知らないよ、正臣君」
「…なに、言ってんすか…」
ふふふ、と笑い声が彼から漏れた。
いつから彼は、俺の言葉に動じなくなったのだろう。
昔見た小麦畑のような瞳が、またうとうとと瞼に隠れた。
「いいよ。そしたら、あんただって生きていけない…」
そのまま、すー、すー、と寝息に変わった。
「何言ってんの…」
相変わらず、馬鹿だ。
胸の奥がへんだった。
ああ、神様。どうして俺にこんなものを遣わした。
俺はこんなものがなくても良かったのに。
とくん
とくん
とくん
やさしい鼓動がうるさい。
「うるさいよ、馬鹿…」
失くせないもの なんて
俺には、いらなかったのに。