不完全をなぞってわらう
全国大会が終わって、一体どのくらいの日が経っただろう。もしかしたら3日かもしれないし、1週間かもしれないし、1か月もかもしれない。それくらい頭がぼんやりとしていた。未だ実感の湧かない優勝の二文字を心のうちに抱えて、自室の窓から空を見る。薄く雲がかかった夕暮れは、どこかで見た絵画のように他人行儀で嘘くさい。流れる靄のような雲を見ながら、ひとつひとつを無意識に思い返していた。思い出と呼ぶには不格好なそれらは別段特別なものでもないと思っていたのに、言いようのない感情がぐるぐるとせめぎ合う。らしくないな、と自分でも思った。視線を落としたその中にラケットバックが映る。
夏の盛りはすっかり落ち着いて、風は秋の気配を含んでいる。それでもアスファルトの熱は靴の裏を通って伝わってくる。当てもなく歩を進めていたが、向かう場所は決まっていた。あの、越前と試合をした高架下。何故自分がそこに行こうと思ったのかはわからない。漠然と行かねばならないような使命感、といえば大げさだが情動に突き動かされたのだ。あの場所から何か変わった気がする。今、その何かを知りたいと思っているのかもしれない。この焦燥にも似た、もどかしさ。
高架下は相変わらず人気のない、静かな場所だった。ただ一つ違うのは、わずかに見覚えのあるラケットバックが立ててあったことだろう。これはいつ見たものだったか。
「やあ」
振り返ると、そこに似つかわしくない男が立っている。一体どうしてこの男がここにいるのか。
「検診の帰りにたまたま見かけてね」
「…こんなところまでご苦労だな」
幸村は冗談だ、と笑いながらラケットバックに手をかける。使い込まれているであろう中身は、わずかに夕日に反射して光る。その手つきは寂しげであり、美しくもあった。ラケットヘッドがこちら指す。幸村は薄く微笑みを浮かべて、コートに入る。有無を言わさずというところが、いかにも彼らしい。仕方なく自分もラケットを取り出し、コートに入った。満足そうにうなずくとポケットからボールを取り出す。ボールは気持ちのよい音を立てながら、こちらへ向かってきた。
幸村との試合は、なぜかとても苦しい。彼は勿論実力者ではあるけれど、そういった技術や才能の面を越えた息苦しさを思い起こす。ひたすらラケットにボールが当たり、地面に跳ね返る音だけが響く。気が付けばただの打ち合いになっていた。ゆるく弧を描き、ボールはいったりきたりを繰り返す。
「君と戦えなくて残念だったよ」
淡々と言葉を吐き出す幸村の顔に、先ほどの微笑はない。俺もだ、という言葉を飲み込んでボールを返す。
「ここ、特別な場所なのかい」
「…いや」
たわいない会話が生まれては消えていく。ふいにラケットの動きは止まり、ボールは幸村の足元を転がった。それを拾い上げ、ラケットをバックに戻す。彼の突拍子のなさというのは、不愉快でありながらも理に適っているようだった。このぬるい空気は居心地が悪い。あの坊や。ふいに話し出した幸村は全国大会のことを思い出している。こちらを見ているはずの瞳には、俺の姿はない。
「君は真田に負けて俺はあの坊やに負けて。似たもの同士だね」
肩にラケットバックを背負うと、幸村はこちらへ歩み寄った。ほんの少ししか変わらない身長のせいで、目の前に立たれるとしっかりと顔が見える。幸村の手が肩に触れ、その力の流れに身を委ねるようにその場所に倒れた。揺蕩っていた雲がすっかり消えた空が見えた。
「汚れているよ」
先ほど肩を押した手の親指は、唇をなぞった。彼の体温がうっすらと残る。膝をついてこちらを覗くさまは痛々しい笑みを浮かべるのだ。
「ほら」
冷たい優しさに甘えて手を取る。幸村は笑っている。唇に残る彼の体温。
作品名:不完全をなぞってわらう 作家名:やよ