無題
トンネルを抜けると雪国だったといえば、日本でも有数の有名な小説の書き出しだ。もっとも、冬になれば毎日のようにリアルでその光景を見ることのできる同僚は、別に有難くもないけどねと肩をすくめてみせるばかりだ。まあいいや。その書き出しにならっていえば――新大阪を抜けると、そこからは収益ががくんと落ちる路線でしたなんて感じだろうか。いや、東京・大阪・名古屋を有して、年間で兆の桁を稼ぎ出す場所と単純比較されても困るんだけど。
そんなどうでもいいことが頭に浮かぶのは、多分、多少なりとも焦っているということなんだろうなぁ、と。山陽はそう考え、乾いた笑みを浮かべた。
新大阪を抜けると、以降は博多までJR西日本の管轄に入る。多少の社風の違いや、乗車人数の違いからくるサービスの違いなんてものも存在する。とはいえ、東京から博多行きに乗っている乗客は、特に変化など感じたりはしないだろうし、させるべきでもないだろう。
「意識させるべきじゃないんだけどなぁ~」
ぴりぴりと自らの肌を刺す違和感に、山陽は大きくためいきをつく。
新幹線は、基準を守ったレベルの騒音を撒き散らしながら、順調に時間通りの運行を続けていた。乱れるとすれば、今からだ。
山陽はにこやかな笑みを浮かべ、客席の間を抜けて歩いた。時折の乗客からのリクエストに答えつつ、皮膚感覚でよくない存在の場所を探る。お騒がせしましたと扉の前で一礼し、デッキに出た瞬間、表情が変化した。
明るく居心地のいい車両からそれらを繋ぐデッキへと移動すれば、多少なりとも雰囲気は暗くなる。だが。現在のここはそういったレベルの話ではなかった。
一歩前へと進むも躊躇するほどの暗闇が、デッキに落ちている。もっともそれは、乗客や乗務員が感知できるものではない。山陽新幹線そのものである彼だからこそ、存在を察知できる代物だった。
ここはトイレが設置されているデッキではない。だから、そうそう乗客の出入りはない。そう考えながら、山陽は後ろ手に扉をロックする。向かいもそうしておきたいと考えながら、一歩二歩と慎重に進み出たところで、山陽は腕をあげ顔を庇った。ほぼ同時、濃緑の制服の袖が切り裂かれ、だらりと垂れ下がる。
「……設置されたのは何年前だと思っているのよ、ホントに」
悪意と恨みがただ渦巻いている。なぜ、止まらなかった。なぜ、そこを通過した。なぜ、廃止した。ああもう、と。そう口にしながら、山陽はポケットを探った。そして、白いお札を取り出すと、数歩後ずさって背後の扉に貼り付ける。闇が揺れた。
「出雲大社なんか通ってないけど、場数はあるんだよ、っと!」
言いざま、確かな足取りで床を蹴る。山陽の目にデッキ内の状態は見えていない。しかし、頭の中と手足がもつ記憶は確かだった。
何も見えない闇の中を抜ける。向かいの扉にも同じ札を貼り付け、ふりかえった。ロックする余裕はなかった。人に対しては無力だ。だが、ここで揺れる悪意に対してはそうではない。狭いデッキに閉じ込められた存在が、揺れる。そして、その元凶たる山陽を包み込み、押しつぶそうと密度を増した!
そんな中で、彼の白い手袋は着実に白い軌跡を描く。頬が大きく切れ、血液が散った。だが。臨兵闘者皆陣列在と正しく動くてのひらと低い声は、全く変化しなかった。闇が、身をよじる。山陽が目を細める。遠く、車内のアナウンスが、次の駅が近いことを知らせた。
「散れ! いつまでも文句言ってんじゃねェ!」
裂帛の気合と共に最後の軌跡を描き、山陽はそう口にした。お忘れ物がありませんよう、御支度ください、と。アナウンスのボリュームが増した。いや、正常に戻った。
殺風景なデッキで、彼はふうと息を吐く。
「経費削減にしてもひどくない?」
東海道ちゃんとこはがっちり魔除けされてんのになー、と。そう一人ごちてから、おっとしまったと口にし、背後のお札をひっぺがす。反対側に対しては、お札のほかにロックの解除が必要だった。簡単な作業のあと、手袋を脱いだ手で頬を拭い、ためいきをつく。そして、トイレがない理由――乗務員室をノックした。誰もいないのを確認し――いたならば、さっきの時点でもう少し騒ぎが大きくなっていたに違いないのだから当然なのだが――、中に入り腰を下ろす。狭い室内で長い足をもてあましながら、硬い壁に背を預けた。
しばらくの後、微かな振動とともに列車が止まったのがわかる。扉の外から平和なざわめきが聞こえた。
やがて、停車時間が終わり、次の駅へとまた列車は走り出す。
「御安全に」
やれやれ、と。そう呟き、肩の力を抜く。さて、これから顔をあわせるであろう九州や東海道の同僚に対する、上着と頬の言い訳を考えながら、彼は目を閉じた。
fin.