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篠原こはる
篠原こはる
novelistID. 11939
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ひらいて、むすんで、またくくって

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ひらいて、むすんで、またくくって


 嵐はやまない。
 大げさなほどな立ち回りで喧嘩を終えたあとは、腹の奥底で重たいしこりのようなものが蠢いている。俺はいつも、海の底と錯覚しそうな暗く深い闇を見つめていた。自らの内を覗き込むかのようなそれを、じっと息を殺しながら耐えていると、闇が細く震えるようにしているのがわかった。闇の粒子が、怯えるように何かとぶつかって震えている。それが何かはわからない。ただ、そのことを確認するたび、俺は一人きりでも、少しも怖くなかった。嵐に包まれ、安らかな気持ちを取り戻すことだってできた。それは、自分がどこか遠くへ運ばれてゆくような安らかさだった。自分ひとりでは到底たどり着けない遠い場所へ、この嵐の中で震えるか細い闇を揺らすものが、俺を連れて行ってくれるような気がした。それが一体どこなのかは、よくわからない。ただ、すべてがしんと静かで濁りも淀みもない世界だということは核心できた。俺は立ち尽くしたまま、手に持ったままの道路標識を放り投げてその遠い場所を見ようとまぶたを閉じた。

 その次の日に、三年ぶりの幼馴染と話すきっかけができた。

「久しぶりだな」
 彼と話すのは本当に久しぶりだったので、俺はそう言ったきり、何を話したらいいのかわからなくなってしまった。彼は、
「静雄くんは元気だった?」
 と、かすかに頭を傾けながらこちらを窺ってみせた。まるで俺が彼を覚えているだろうか、という確認にも取れる動作だった。
 彼――竜ヶ峰帝人――は俺の記憶より幾分か背が高くなっていた。背筋や指や腕の伸びやかなラインが、目の奥にいつまでも残った。そのラインを薄い筋肉がバランスよく包んでいる。しかし、何より印象的だったのが、帝人の微笑み方だった。記憶に残る幼さのまま、うつむき加減にそっと微笑む。吐息を吐くように、柔らかい息がほのかに洩れてくる。それは確かに微笑みでありながら、伏せられた睫毛のために、せつないため息のようにも思えた。帝人が微笑むたび、どんな小さな表情の動きさえも見逃すまいと、俺はじっと見つめてしまう。それが、昔から俺の習慣だった。
 俺たちはぽつりぽつりと話し始めた。会えなかった三年ほどを埋めるかのような、慎重な仕草で。
帝人の両親の近況、小学校を卒業してからこの高校へ入るまでの間に起こった大体の出来事、俺が今この高校でどんな風に過ごしていたか。話を始めた最初は、話と話の間にはたっぷりすぎるくらいの沈黙の時間があった。久しく言葉を紡いでなかったせいか、俺は沈黙にちっとも落ち着かず、意味もなく「うん、うん」と頷き咳払いなどしていたりした。
 しかし、話題が二人で過ごした幼い頃の思い出に移ると、次第に俺の中から言葉がわき出てくるようになった。帝人も二人で過ごした場面について、驚くほどよく憶えていた。前後の関係やストーリーなどは全くといって良いほど空白だったが、その一つ一つ、一コマ一コマの色彩を鮮明に焼き付けているいるようだった。
「僕はよく静雄くんに泣かされてばかりだったよ。すぐに僕の食べ物を横取りするんだから」
 帝人は二人で並んで食べた、アイスやシャーペット、プリンにゼリー。それにお互いの家を行き来していた頃には、好きな食べ物を食べたり食べられたりした事を思い出していた。
「お前が食べてるの遅いからだろ」
 帝人が食べていたものが美味しそうに見えていたことは、なんとなく黙っておいた。
 その言葉がきっかけとなり、俺は古い記憶もどんどん蘇ってきた。
「僕はいつも、しずちゃんが取った、って叫んで泣いてたよね」
「そうそう。俺が何度も何度もごめんって謝るまで許してくれなかったし、泣き止んでもくれなかった。それに、あとで絶対に俺のプリンを勝手に食いやがる」
「やだな、まだ根にもってるの?」
 帝人は声をたてて笑った。
「食べてもちゃんと半分だけだったでしょ。それでも機嫌が悪くなっちゃって、僕はいつもその時ばかりは静雄くんに嫌われたんじゃないかとばかり思ってたよ。甘いものが大好きなのは、今も変わってないの?僕はどんなにお菓子を横取りされ続けても、どうしてか静雄くんと物を食べるのは好きだったよ」
 こんな風して俺たちは、お互いが共有しているいろいろな場面を確かめ合っていった。特に帝人が話しの途中でその印象的な微笑の表情を見せてくれると、俺はますます打ち解けて空白のままの三年間が埋まっていくような気分になることができた。
 こうした会話は俺を懐かしい気持ちにし、二人の間をより和やかにしてくれた。一つ一つの確認作業にも似た言葉が交わされていくうち、俺たちは共通の目標を達成したかのような喜びを分かちあうことができた。その目標が幼い頃のささやかな思い出であればあるほど余計に、俺たちは平和になれた。
 激しいばかりでその実、中身のなかった生活が、突然にしてゆるやかに鼓動を打ち始めた。俺は帝人のために時間を割くことを覚え、行くことのなかった買い物に全部付き合い、俺の都合にも連れ出す術を学んだ。味などわからなかった昼食のパンでさえ、噛んだ途端に甘く感じることさえあった。そうして、あっという間に帝人と再開して一ヶ月が過ぎた。


続く