真夜中のお風呂入門
という燐の叫び声が広い浴室に響き渡り、思わず雪男は瞼を閉じてうるせーよと漏らしかけた言葉を飲み込んだ。
「言っただろ、シュラさんと僕のどちらかの監視下に必ず兄さんはいなきゃダメだって」
僕だって風呂くらい一人で入りたいよ、と眉間に寄った眉と引き攣った頬に書いてある。燐はただ面倒くさそうにふぅんと答えて扉を閉めた。
「お前ってほんと大変な」
朝も昼も夜も俺にくっついてさ。
「……」
(なにそれ)
他人事ォ!?
思わず持っていたタオルを取り落した程度には驚愕して、雪男は海より深い溜息を吐く。
「兄さんはいやじゃないわけ、入浴まで監視されてるってことだよ」
「べっつにィ。弟と風呂入るのに監視もクソもねぇだろ」
「……」
何それ、なんでそんな可愛いこと言ってんのこの人。僕がどれだけ四六時中兄さんと一緒でひゃっほう言ったか分かってんのかオイ、コラ。
かちゃり、と眼鏡のブリッジを中指で押し上げて雪男はごほん、と一つ咳払いをした。気にした様子もない燐は、鼻歌を歌いつつ濡れたタイルの上をひょいひょいと器用に歩いてゆく。広い大浴場だ。寮の一部屋一部屋にシャワールームはついていないので必然的に浴場は立場関係なく共同になる。だが燐はいつも最後に入浴していた。もちろん、もろもろの理由があってだが誰もいない浴場を一人で広々と使うのも中々、乙なものだ。
雪男はそんな兄の背中を見つめながら白い湯気の向こうでゆらゆら揺れている尻尾をつい目で追ってしまう。
時折、びたんと床のタイルを叩いてみたりと忙しなく動くそれを知らずに凝視して、口元を掌で覆った。
(ハァハァ…かわいい…)
「雪男?」
「……」
「おい、雪男」
「なにっ」
「なにって、お前、タオル落ちてんぞ」
俺はいいけど全開。
指差されて我に返ると確かに巻いたはずのタオルは落ちていろいろ全開だ。
「……大丈夫、僕も気にしないっ」
「……」
や、顔真っ赤になってる時点で気にしてるからね。にやにやと笑っている燐の顔がさも憎たらしいが、いつもの調子なのでひとまずはほっとした。悪魔の子どもだということが皆にバレて流石に落ち込んでいるかとも思ったが…。
そうでもないらしい。
「何か、久しぶりだな」
こういうの。
泡立てたカエルの形をしたスポンジで体を洗いながら、燐はふと昔を思い出した。獅郎がいたときから一緒に風呂になど入ったことはなかったが、それでも幼いころは3人で入浴していた。成長するにつれてそういうことはなくなっていったが。
「そうだね…確かに久しぶりだ」
「あ、なぁ雪男、洗いっこしようぜ」
「……兄さん…子どもじゃないんだか…」
はぁ、と項垂れて風呂椅子に腰かけた雪男は呆れたように溜息をついたが、燐の言葉を脳内で反芻して思わず目を見開いた。
洗いっこだと…!
「今洗いっこっていった?」
「あ、や…別に嫌ならいいんだけどよ」
折角、一緒に入ってんだからよ…と口ごもる燐から顔を逸らして雪男はぶるぶると震えた。
「なに言ってるの。あれだよね。必要だよね、そういうなんていうの。コミュニケーションも」
「…いや、だから…」
嫌なら別に…ともう一度言いかけて余りの雪男の剣幕に圧倒されて思わず身を逸らせた。
それってあれですか、何の遠慮も躊躇もなく兄さんの体とか髪とか尻尾に触ってわしゃわしゃしてもしゃもしゃしていいってことですか。
「し、仕方ないな、兄さんは…」
「……いや……」
「じゃ、スポンジ貸して」
隣に座る燐の背後に光の速さで移動して、手を伸ばすと兄が握りしめているカエルさんスポンジを奪い取る。床に膝をついて興奮で震える手を気づかれないようにそっと背中に触れさせた。驚くほど滑らかな感触に思わずごくりと喉が鳴る。
「はー極楽極楽。やっぱ兄ちゃんの特権だよなー」
「ほんの数時間先に生まれただけで特権とかないから」
女の子のように華奢では決してないが、まだ成長しきらない肩に大きな荷物を背負っているのだ。僅かな感慨に目を細めた刹那、燐の気分を表すかのように気まぐれに、右に左にと揺れる尻尾が時折雪男の足に当たる。
「……っ」
モフモフ、したい…。
という欲望が沸き起こるのも無理はない。
弟は兄が大層好きなのだから。
「兄さん」
「んあ?」
「し、尻尾も洗うよ」
「あ…ばか、尻尾はいいよっ」
慌てて振り返ろうとした燐の尻尾をむぎゅ、と片手で掴むと予想外に力が入り過ぎたのか「ぎゃあ」と悲鳴が上がる。
「い、いてぇよ、馬鹿!」
「ごめん」
体の力が抜けたようにふにゃりと倒れこむ燐の体を抱きとめて、雪男は努めて冷静だった。
「でも洗いっこするならちゃんと洗わないと」
「おめーはほんと何でそんなくそまじめ…っひゃああ」
泡の付いた指で根本から先端までを擦られて咄嗟に、燐は雪男の肩にしがみついて爪をたてた。
「だからやめ…っ」
「大丈夫だよ兄さん、僕に任せて」
「いいって、ほんと、あ、あ…っ」
わしゃわしゃと見た目に反してよく泡立つそれを丁寧に指で梳いて、掌で擦るとびくびくと肩が震える。どさくさに紛れて抱きしめながら確かに幸せを感じているのだった。