その、小さな手のひら
手を伸ばせば届くのに。
成り行きでこの機体のパイロットになった少年はその外見からはおよそかけ離れた性格のようだった。はっきりと自分の考えている事を伝えることのできる、意志の強い少年だと。
「自分に出来ることをしろよ。」
そういって半ば強引に戦場へと送り出したのは自分だ。実際に自分などよりもはるかにパイロットとして優れた適性を持つ少年は、危ぶまれる事もなく敵軍の攻撃を凌いで来た。
自分が同じ状況に放り出されたら、おそらくコロニーの襲撃で死んでいただろう。
少年を頼もしく思う反面、恐怖心があるのもまた事実。
同じ戦場に立つものに、前時代的な人種差別や偏見はない。友情も信頼も、ともに戦っているという事実だけが必要で、それ以外の瑣末な事には拘らないのが兵士だ。戦場を駆ける自分たちにはそれだけで十分信頼を寄せる仲間である事が証明される。
ただし、あくまでもそれは自分たちナチュラルの中での信頼関係だ。たとえ優れた能力を持っていても、命の恩人であったとしても、コーディネイターの少年はこの船に馴染まない。それはそれだけこの戦争が始まるまでの間に増長した民族意識の違いが凝縮された結果だろうと思った。
もっとも、少年の側にも少なからず馴染まない理由はあるように感じられた。それは最近の少年の表情から簡単に読み取れる。
戦闘にならなければ出番のないパイロットは、通常航海中にやる事はほとんどない。せいぜい整備士に混じって油まみれになながら愛機の世話をしてやるくらいだ。それでも専門の担当者が居るからやはり簡単な調整にとどまる。かといって格納庫を追い出されるわけではないから、自分もそこに留まっている事が多かった。
整備主任に小言を言われつつも計器類のチェックを終えてプログラムを待機中にセットしてコックピットを出る。
「あんまり仕事取らんでくださいよ大尉。」
むっつりとした表情で記録簿に目を落としていた整備士はそう言った。
「…またまたぁ、俺がものぐさなの知ってるでしょ。軍曹の仕事とったりしないって。」
苦笑しながら床を軽く蹴って浮かび上がる。
「今のところ向こうも動きがないから暇なんだよ。」
そういうと彼は大げさにため息をついた。
「大尉がゼロ式に乗っているとき以外はものぐさなんて話、連邦軍じゃ有名ですよ。」
何をいまさら、といった表情で整備記録簿を差し出した。
「今日の結果です。目を通して艦長に報告してくださいよ?」
はいはい、とつぶやいてそれを受け取った。
「…ところであいつの様子はどうだよ。」
何気なくその機体を見上げながら訊ねると、ううん、と言って難しい顔を返した。
「どうも、戦闘の成果ほど本人の様子は順調じゃないようですがね。」
何人かの整備員と話し込んでいる少年を見て言った。書き換えたプログラムについて負荷のかかる箇所を調整しているらしい。
戦闘の成果だって結構苦しいでしょ、と返しながら手元の記録と実物を見比べた。
細かい傷まできれいに修復された白い機体。自分ですらその性能に恐れを抱く機械を事もなく操る線の細い少年は、クラスメイトだったという友人たちとともに小型の端末を覗いて熱心に話し込んでいた。
比較的落ち着いた表情で話をしている少年を見て、ふと違和感を覚える。
「…あいつ、あんなに笑わない子だったか?」
ただ漠然と、今のままじゃダメだ、と感じる自分がいる。
ヘリオポリスにいたころに比べると、ずいぶんと余裕のない生活をしている。時間ではなく、心が。
艦内のタイムテーブルが深夜と呼ばれる時間帯に、一人で無人の格納庫に立つ。見上げた先には、巨大なモビルスーツが立っていた。照明の極力落とされた室内で、それに触れる。冷たい、金属の感触。
「…。」
ゆるゆると、詰めていた息を吐き出した。額を押し付けて、目を閉じる。
「…つらい、な。」
言葉にしてしまうと、とたんに涙があふれてくる。嗚咽をかみ殺して、静かに流れるしずくが無重力の中に散っていくままにしていた。
友達、と呼んでいた人たちも、自分の回収してきた救命ポッド乗っていた人たちも、この船のクルーたちも、自分とは違う。あからさまに冷たい視線を向けてくる人もいる。それでも、この船を護ることができるのは自分だけだ、と押し切られれば選択肢はない。
けれども結果的に見れば、自分はすでに人殺しだ。たとえそれが、戦争という状況の中にあっても事実に変わりはない。
いきなり現実味を帯びた画面の向こうの世界。向こうだったはずの世界。
友達と笑って過ごしていた日常。
面倒だと思っていたカレッジの授業。
すべてが、脆く壊れていった。残ったのは空っぽの自分。人殺しという事実。戦争をしているという現実。
罪悪感に苛まれて眠れずにいても、自分に唯一許された場所はここだけ。冷たい機体の、狭いコクピットの中。
「…なんにもない…。」
ただ、よく言うことを聞く人形のように。
膝を抱えて、目を閉じる。
どこかで見た顔だと思った。
戦場に出て、次第に何かを無くして行く兵士の顔だと思った。
日毎、険しさを増していく少年の表情に気づいて、少し後悔した。幾度となく戦場に若者を送り出してきた自分にとって、そう感じるのは初めてだった。
「…後悔、ね…。」
偶然見かけた光景。たった一人、薄暗い格納庫の中で泣いていた姿。肩を震わせて、一言の嗚咽も漏らさずに泣いていた。それでも、アルテミスの一件以来ほとんど表情を動かさなくなっていた少年の、人間らしい姿に安堵している。だからこそ、後悔しているのかもしれないと思う。
結局、コーディネーターを化け物にしているのはナチュラルの勝手な自己満足のためだと思い知らされた。それを促したのは、紛れもなく自分自身だけれど。
「…俺のほうまでキツイなぁ。」
あんな泣き方されると、とひとつため息をついて床を蹴った。無重力の慣性移動に従って、ゆっくりと格納庫を進んでいく。壁際にそびえ立つ機体のの足元にうずくまる少年の隣に立った。
「…こんなところで寝るなよ?」
その声に反応して、ゆっくりと顔を上げる。その、驚きと羞恥心の入り混じったような表情に苦笑する。
慌てて目許をぬぐう少年の隣に腰を下ろして、こっそりと忍ばせて来た煙草に火を着けた。深く煙を吸い込んで吐き出すと、ほんのりと視界が霞がかる。排気ダクトに向かって流れる白煙の行方を何気なく追っていると、明後日の方を向いたままだったキラが呟いた。
「…艦内禁煙じゃないんですか…?」
ううん、とまた苦笑してから携帯灰皿に灰を落とす。
「まあ、内緒ってことでさ。たまには息抜きしないとな?」
少しおどけた様に言って笑うと、少年は再び俯いた。
そうしてまた、沈黙だけが流れる。
何でこの人ここにいるんだろ。
居住区にある部屋は簡単なもので、引っ切り無しに通路を誰かが歩いている所為で落ち着かない。かといっても食堂やその他の共用スペースには必ず誰かがいて、まさかブリッジに入る訳にもいかずにふらりとここに来た。この時間なら誰も居ないだろうし、ストライクの中には誰も入らない。
そう思っていたのに。
「…みっともない…。」
成り行きでこの機体のパイロットになった少年はその外見からはおよそかけ離れた性格のようだった。はっきりと自分の考えている事を伝えることのできる、意志の強い少年だと。
「自分に出来ることをしろよ。」
そういって半ば強引に戦場へと送り出したのは自分だ。実際に自分などよりもはるかにパイロットとして優れた適性を持つ少年は、危ぶまれる事もなく敵軍の攻撃を凌いで来た。
自分が同じ状況に放り出されたら、おそらくコロニーの襲撃で死んでいただろう。
少年を頼もしく思う反面、恐怖心があるのもまた事実。
同じ戦場に立つものに、前時代的な人種差別や偏見はない。友情も信頼も、ともに戦っているという事実だけが必要で、それ以外の瑣末な事には拘らないのが兵士だ。戦場を駆ける自分たちにはそれだけで十分信頼を寄せる仲間である事が証明される。
ただし、あくまでもそれは自分たちナチュラルの中での信頼関係だ。たとえ優れた能力を持っていても、命の恩人であったとしても、コーディネイターの少年はこの船に馴染まない。それはそれだけこの戦争が始まるまでの間に増長した民族意識の違いが凝縮された結果だろうと思った。
もっとも、少年の側にも少なからず馴染まない理由はあるように感じられた。それは最近の少年の表情から簡単に読み取れる。
戦闘にならなければ出番のないパイロットは、通常航海中にやる事はほとんどない。せいぜい整備士に混じって油まみれになながら愛機の世話をしてやるくらいだ。それでも専門の担当者が居るからやはり簡単な調整にとどまる。かといって格納庫を追い出されるわけではないから、自分もそこに留まっている事が多かった。
整備主任に小言を言われつつも計器類のチェックを終えてプログラムを待機中にセットしてコックピットを出る。
「あんまり仕事取らんでくださいよ大尉。」
むっつりとした表情で記録簿に目を落としていた整備士はそう言った。
「…またまたぁ、俺がものぐさなの知ってるでしょ。軍曹の仕事とったりしないって。」
苦笑しながら床を軽く蹴って浮かび上がる。
「今のところ向こうも動きがないから暇なんだよ。」
そういうと彼は大げさにため息をついた。
「大尉がゼロ式に乗っているとき以外はものぐさなんて話、連邦軍じゃ有名ですよ。」
何をいまさら、といった表情で整備記録簿を差し出した。
「今日の結果です。目を通して艦長に報告してくださいよ?」
はいはい、とつぶやいてそれを受け取った。
「…ところであいつの様子はどうだよ。」
何気なくその機体を見上げながら訊ねると、ううん、と言って難しい顔を返した。
「どうも、戦闘の成果ほど本人の様子は順調じゃないようですがね。」
何人かの整備員と話し込んでいる少年を見て言った。書き換えたプログラムについて負荷のかかる箇所を調整しているらしい。
戦闘の成果だって結構苦しいでしょ、と返しながら手元の記録と実物を見比べた。
細かい傷まできれいに修復された白い機体。自分ですらその性能に恐れを抱く機械を事もなく操る線の細い少年は、クラスメイトだったという友人たちとともに小型の端末を覗いて熱心に話し込んでいた。
比較的落ち着いた表情で話をしている少年を見て、ふと違和感を覚える。
「…あいつ、あんなに笑わない子だったか?」
ただ漠然と、今のままじゃダメだ、と感じる自分がいる。
ヘリオポリスにいたころに比べると、ずいぶんと余裕のない生活をしている。時間ではなく、心が。
艦内のタイムテーブルが深夜と呼ばれる時間帯に、一人で無人の格納庫に立つ。見上げた先には、巨大なモビルスーツが立っていた。照明の極力落とされた室内で、それに触れる。冷たい、金属の感触。
「…。」
ゆるゆると、詰めていた息を吐き出した。額を押し付けて、目を閉じる。
「…つらい、な。」
言葉にしてしまうと、とたんに涙があふれてくる。嗚咽をかみ殺して、静かに流れるしずくが無重力の中に散っていくままにしていた。
友達、と呼んでいた人たちも、自分の回収してきた救命ポッド乗っていた人たちも、この船のクルーたちも、自分とは違う。あからさまに冷たい視線を向けてくる人もいる。それでも、この船を護ることができるのは自分だけだ、と押し切られれば選択肢はない。
けれども結果的に見れば、自分はすでに人殺しだ。たとえそれが、戦争という状況の中にあっても事実に変わりはない。
いきなり現実味を帯びた画面の向こうの世界。向こうだったはずの世界。
友達と笑って過ごしていた日常。
面倒だと思っていたカレッジの授業。
すべてが、脆く壊れていった。残ったのは空っぽの自分。人殺しという事実。戦争をしているという現実。
罪悪感に苛まれて眠れずにいても、自分に唯一許された場所はここだけ。冷たい機体の、狭いコクピットの中。
「…なんにもない…。」
ただ、よく言うことを聞く人形のように。
膝を抱えて、目を閉じる。
どこかで見た顔だと思った。
戦場に出て、次第に何かを無くして行く兵士の顔だと思った。
日毎、険しさを増していく少年の表情に気づいて、少し後悔した。幾度となく戦場に若者を送り出してきた自分にとって、そう感じるのは初めてだった。
「…後悔、ね…。」
偶然見かけた光景。たった一人、薄暗い格納庫の中で泣いていた姿。肩を震わせて、一言の嗚咽も漏らさずに泣いていた。それでも、アルテミスの一件以来ほとんど表情を動かさなくなっていた少年の、人間らしい姿に安堵している。だからこそ、後悔しているのかもしれないと思う。
結局、コーディネーターを化け物にしているのはナチュラルの勝手な自己満足のためだと思い知らされた。それを促したのは、紛れもなく自分自身だけれど。
「…俺のほうまでキツイなぁ。」
あんな泣き方されると、とひとつため息をついて床を蹴った。無重力の慣性移動に従って、ゆっくりと格納庫を進んでいく。壁際にそびえ立つ機体のの足元にうずくまる少年の隣に立った。
「…こんなところで寝るなよ?」
その声に反応して、ゆっくりと顔を上げる。その、驚きと羞恥心の入り混じったような表情に苦笑する。
慌てて目許をぬぐう少年の隣に腰を下ろして、こっそりと忍ばせて来た煙草に火を着けた。深く煙を吸い込んで吐き出すと、ほんのりと視界が霞がかる。排気ダクトに向かって流れる白煙の行方を何気なく追っていると、明後日の方を向いたままだったキラが呟いた。
「…艦内禁煙じゃないんですか…?」
ううん、とまた苦笑してから携帯灰皿に灰を落とす。
「まあ、内緒ってことでさ。たまには息抜きしないとな?」
少しおどけた様に言って笑うと、少年は再び俯いた。
そうしてまた、沈黙だけが流れる。
何でこの人ここにいるんだろ。
居住区にある部屋は簡単なもので、引っ切り無しに通路を誰かが歩いている所為で落ち着かない。かといっても食堂やその他の共用スペースには必ず誰かがいて、まさかブリッジに入る訳にもいかずにふらりとここに来た。この時間なら誰も居ないだろうし、ストライクの中には誰も入らない。
そう思っていたのに。
「…みっともない…。」
作品名:その、小さな手のひら 作家名:綾沙かへる