君のいる、世界は09
大昔の出来事だと、そんなことを習ったような気がする。海が割れ、海底を歩いて渡るなんていくら神話と言えどもありえない。そんなエピソードを思い出したのは、まさに自分たちの行く手を学生と言わず兵士と言わず、とにかくみんな両側によけて道を開けてくれるからだ。若干スケールが小さいような気もしたけれど、目の前の障害が向こうからなくなってくれると言うのは確かに圧巻だった。隣を歩く自分よりほんの少し背の低い女性が、国家を代表する立場にあることを考えれば当然なのかもしれないが。
「ていうか、当然か…」
どこか諦めの混じった微笑で周囲を曖昧に誤魔化しつつ、好奇心に満ちた視線を冷たい一瞥で黙らせる。自分はあくまでも案内役だ、と言い聞かせて、気を抜くとあちこち覗き込みにかかる彼女の軌道修正をさりげなくしつつ、矢継ぎ早に繰り出される質問に澱みなく答える。
「…ねえ、楽しい?」
一通り建物の中を回ってようやく人気のない場所に出た。渡り廊下から中庭に抜ける芝生が敷き詰められたそこは、特定の何人かが良くサボっている場所だ。中庭を仕切るフェンスの向こうは空き地で、敷地の一番外れに当たる。
「楽しいさ」
遠慮なく芝生の中に足を踏み出して、秋晴れの空を見上げて彼女は笑う。
「お前が楽しそうで良かった。ホントは、みんな心配してたんだぞ」
私は代表だ、と言ってカガリはフェンスの手前まで歩いていく。
「…代表って」
みんな、というのがそもそもどのくらいの人を指すのかが良くわからない。苦笑を交えて聞き返すと、彼女はみんなはみんなだろ、と繰り返す。
「…ちっとも、帰ってこないし、お前。たまには叔母様とか、連絡くらい入れろよ」
それに、とそこで言葉を切って軽く俯いた。
「…私が、寂しいんだ」
何かを、不意に納得した。
すとんと落ちるように、ここ数日の不安のような寂しさのような、曖昧な感覚が、なんなのか解ったような。
ああそうか、と小さく溜息が零れた。彼女がそうであるように、自分もまたそうなのだと。
「…うん、僕も寂しいよ」
時々ね、と微笑と共に呟く。
「…双子って、不思議だよね」
どこかで呼び合っているような気がする。そばにいても、離れていても、それはおそらく一生続いていく感覚なのだろうと、今なら納得出来る。
「でも、だから…安心もするよ。君が元気でいるんだなって、わかるから」
そう言って笑うと、カガリはそうか、と少し照れたように返した。
冷たさを増した夕暮れの風が通り抜けて、不意に触れた指先をどちらからともなくしっかりと握り締めた。
「…これから…作れるかな…」
ポツリとカガリが呟く。
双子として共に育っていたら、手を繋いで歩く、なんてごく普通のことだったのかもしれない。幼い子供が作るような沢山の思い出を、作れたかもしれない。
「…作ろうよ、そんな、当たり前のこと、いろいろ、さ」
かけがえのないものを。
「…そうだな」
オレンジ色に変わり始めた世界の中で、顔を見合わせて小さく笑いあった。
「そういえば、そっちは何で空き地なんだ?」
中庭を仕切るフェンスの向こう側に視線を投げて聞かれると、正直返答に困る。何でだろうね、と適当に返すと、彼女は軽く首を傾げてからひとつ頷く。
「…そうか、じゃあ大使館でも作るか」
買えればだけどな、と唐突にそんなことを言うから思わず乾いた笑いを返す。実際彼女は国家元首で、それを実行できる立場にあるのだから、この場の軽い冗談では済まないかもしれない、というところが恐ろしい。
「…あるじゃん、反対側の外れに」
オーブは独立国家なので、各国に大使館が存在する。この国にも当然それはあるし、ここからそう遠くはない。
「うん、少し不便だから移転しようかと考えていたところなんだ。ここならすぐ近くに官舎も確保出来そうだし、空港も近いだろ」
基地の周りは新興住宅地が広がっていて、そのわりに住人が少ない。その気になれは新築のマンションを丸ごと借りることだって出来るくらいに。
「…またそんな強引に」
笑いながら言って、それでも彼女らしいとどこか納得もする。
「…そうすれば、お前が帰ってこなくても大手を振ってこっちに来れるじゃないか…」
ほんの少し沈黙を挟んで小さく零れた呟きに、繋いだ手のひらが少し熱を持った。
「…いつか、帰るよ」
先がまだ見えない道を互いに歩き始めたばかりだから、そんな曖昧な約束しか出来ない。それでもカガリは「約束だぞ」と念を押して。
「いつでも、待ってるからな」
そう続けて。
「うん、約束」
また、笑った。
「…アレで、双子、ですか…」
窓の向こうに投げられた視線の先には、手を繋いで笑いあう上司とその姉だか妹だかが見える。その事実を知っていなければ、まるで仲睦まじい恋人のようだ。というより、そうとしか思えない。事実、今現在も目立たないようにこっそりと様子を伺う自分とフラガのほかにも、そこらじゅうに潜んだ野次馬がこっそりと目の前の光景を観察中だ。日ごろの訓練の成果をこんなところで披露しなくてもいいだろうに、まったく何のために軍事訓練を受けているのかわからない。それだけ平和だということは喜ばしいのかもしれないけれど。
「誤解を受けそうだなあ」
ははは、とのんびり笑うフラガは、それでもやっぱりどこか面白くなさそうな気がする。
「…フラガ教官、もしかして…」
「あら、ダメよカイ君」
言いかけると、後ろから聞こえた柔らかな声に止められた。振り返るとフラガの副官を務める女性が楽しそうに笑っていた。
「…気付いても黙っててあげなさいよ」
彼女がわざわざ声をかけたということは恐らく、自分が感じたことは正しいのだ。多分自分も、似たような感情に流されかけているのだろう。
だから気付く。
「…あの人たちはそんなことお構いなし、なんでしょうね…」
今なら、フラガの気持ちはとてもよく解る。
顔は笑っているくせに、妙に落ち着きのない指先がしきりに袖をまくったり下ろしたりしていて。堪えきれずに小さく噴き出した。
「……嫉妬、してるんですね…」
まったくこの人たちは本当に。
「見てて飽きないでしょ」
その通りだ。
作品名:君のいる、世界は09 作家名:綾沙かへる