君のいる、世界は11
隠し事の内容はこれか、と溜息を吐いてキッチンカウンターの上に出されたパスタを握り締めた。
一瞬頭が内容を理解することを拒否したようだ。真っ白になったままテラスを出て、自宅に帰ってくるまでの記憶が曖昧だった。どれくらいぼんやりしていたのか部屋の中が薄暗くなってきて、壁に掛かった時計を見て条件反射でキッチンに立っている。
流水で砂を吐かせたアサリを洗い、にんにくとタマネギを刻む。身体が覚えているのか、頭の中は別のことで占領されていても手は止まらない。
ひと月くらい前の出張で本部に行ったフラガが、戻ってきてから様子がおかしかったことも漸く腑に落ちる。
異動する、と言うことは、ここからいなくなる、と言うことだ。その可能性を全く考えていなかったわけではないけれど、こんなに早くその時が来るなんて。
「…まだ黙ってるってことは…そんなにすぐってことでもない…よね…」
そもそも本人からきちんと聞いたわけではないのだ、本当なのかどうかもわからない。
一通り夕食の準備をしてしまうとちらりと時計と玄関に視線を向ける。まだフラガが戻って来る様子はない。とにかく誰か事情を知っていそうな人に聞いてみよう、とクッキングヒーターのスイッチを切ると、自室に向かった。
デスクの未決済書類は減るどころか増えている気がする。
「…どこから湧いてきたんだこれ」
思い溜息と共に呟くと、自分に付き合って残業をしていた副官が笑った。
「仕方ありません、異動するまでに片付けていただくことはまだ山ほどありますから」
戦時中ではなく、家庭を持っている、と言う事情も考慮されたのか、彼女はここに残る。指導部から輸送課の内勤に移るから結局異動することに変わりはないから、後ひと月と少しでこの部屋を空けるための準備に終われている。
「それでフラガ中佐、まだ言えないんですか?」
処理済書類の仕分けをしていた彼女が突然零した言葉に手が止まり、重くて長い溜息を吐いた。
「…そう簡単にいくもんか…複雑な事情があるんですよ」
戦争が始まるまでは異動ばかりだった。五年も同じ場所にいたという事の方が珍しい。事情を知るマリューがそれとなく働いてくれていたようだけれどそれも限界で、必要とされることは有り難くても、自分が必要としている人と離れてしまうのでは意味がない。
何度も伝えようとしたけれど、どうしても言葉に出来なくて現在に至る。裏切ってしまうようで怖かった。互いに大人なのだから、四六時中べたべた一緒にいたいわけでもなく、束縛する権利もない。だけど、傍にいて欲しい。たった数ヶ月の同居生活で、そこまで欲張りになっていた自分に驚いた。
「…ああちきしょー」
大半を自分に向けて悪態を吐きながら書類にサインをしていると、ふと思い出したように副官は呟く。
「…そう言えば、随分噂になっているみたいですよ、貴方の異動の話」
手が止まった。
「…初耳なんですけど」
なんだか嫌な汗が浮いてきた。
それはもしかしたらキラの耳に入っているかもしれないということで。
「あら、今初めて言いましたもの」
ばさばさとデスクの書類を纏めて席を立つ。
「あと、明日な」
上着を掴んで言い置くと、追い立てられるように駆け出した。
後ろから微かに「お疲れ様でした」と彼女が笑いながら呟いたところを見ると、もっと前から流れていたのかもしれない。ただの我が儘だけれど、どうせ異動するしかないなら自分の口からきちんと話したい。キラの答えがどうであっても、それだけは。
結構な距離がある自宅までの道を走って、マンションのエントランスで呼吸を整えた。鼓動がなかなか収まらないのは、柄にもなく緊張しているせいもあるだろうか。
カードキーを差し込んでロックを解除してドアを開けると、ガーリックの香りが充満していた。
「…今日は何だ…」
肩透かしを食らったような気分でリビングまで入ると、キッチンカウンターの向こうから「お帰りなさい」といつもと変わらず笑みを浮かべてキラが言う。
「最近、遅いですね」
笑みを浮かべたままそんなことを言うから、ちくり、と心が痛む。
「…悪い」
ダイニングテーブルに手際よく並んだパスタと、ワイングラス。どうぞ、と勧められて、空いていた椅子に上着を置いた。
静かに深呼吸をひとつ。
「キラ」
なんですか、と軽く首を傾げた。まっすぐに、その濃紫の瞳を見詰めて。
「…話が、あるんだ」
異動の話なら本当よ、とその人はモニタの向こうで苦笑を浮かべたまま頷いた。
「残念なことに。ごめんなさいねキラ君、私の力が足りなくて」
そう続けて、僅かに目を伏せる。
「…いいえ」
マリューが手を尽くしてくれただろうと言うことは解る。忙しい立場だと言うのにあっさりと回線が繋がったことからも、それは窺い知れた。
「…考えてなかったわけじゃ、ないんです。いつかきっとそんな日が来るって。だけど、そのとき僕がどうするかって…それが決まってなかっただけで」
ひとつひとつ、言葉を探るように紡ぐと彼女はそうね、と微笑を浮かべた。
「…キラ君…もうあなたがそこにいる必要もないのよ」
見透かすように、彼女はそう言った。
最初は、あの人の傍にいられれば良かった。だから、この場所に拘っていた訳じゃない。けれど、ここで過ごす時間は思いの外充実している。ここに来たことが、たとえ自分の意思でなくとも。理由はどうであれ、自分を必要としてくれた場所だ。
「僕は…それでも、あれを残していくわけには」
預かったもの。それも理由のひとつ。
フリーダムには、今この世界に出してはならない技術が詰まっている。それを最後まで守り通すと、彼女と約束したのだから。
「だから、たとえムウさんがいなくても、フリーダムのある場所が僕のいるべき場所です」
世界の安定と自分の気持ち、秤にかけることすら最初から出来ないことくらい、解っていた。
「…そうね」
ふふ、と彼女は小さく笑った。
「それがあなたを縛っていることも事実ですものね。でも、大丈夫よ」
じきにそれは解決するから、と彼女は言う。意味がよく理解できなくて、どういうことです、と訊き返すと彼女は緩やかに、よく知っているように唇を吊り上げて笑みの形を作る。
「そのくらい、何とかしようじゃない。私たちはもう充分。あなたはこれから、あなたの思うように行きなさい」
まるで母親のように穏やかな笑顔で、彼女はそう言った。その表情で何とかする、と言うのだから無条件で信じてもいいと、思った。
「マリューさん…」
助けてもらったんだもの、彼女はモニタ越しに柔らかく言葉を続ける。
「今度は私が手を貸す番だと、思うの。それで、幸せになりなさい」
暖かな気持ちが広がっていく。フラガが黙っていた所為でささくれ立っていた気持ちが、いつの間にか穏やかで優しい気持ちにすり替わっている。
僕だって助けてもらいました、と小さく呟いた。
「あの時も、今も、たくさん助けてもらってます」
そんな、優しい世界にならば。
「…だから、僕は僕の決めた道を行きます」
真っ直ぐにモニタを挟んで向かい合った彼女は、ただ笑って頷いた。
作品名:君のいる、世界は11 作家名:綾沙かへる