恋文
――『今日何時に帰る?』
――『遅くなる』
――『美味いもん作ってあっから早く帰ってこいよ』
「たまにゃ、ちっとぐれェ融通きかしてくれてもいいじゃねェかよ!」
「何をそんなに怒っておるのだ。『遅くなる』とメールをしておいたであろう」
語気荒く食ってかかってくる長曾我部を、毛利は理解が出来ぬ、とばかりに睨みつけた。
深夜の二人暮らしのマンションに、接待を終えた毛利が帰宅した時から、長曾我部の機嫌は悪かった。何でこんなに遅いんだ、メシ食ってくんならそう言え、ぶつぶつと言う男の愚痴に毛利が適当に答えていると、長曾我部が我慢ならないとばかりに怒り出したのだ。毛利はちらりとダイニングテーブルに目を遣り、まるで長曾我部の職場の如くテーブルが完璧にセッティングされていることに気付いて、内心でため息を吐いた。どうやら長曾我部にとって今日はいつもと違う日だったらしいが、それに合わせて仕事の予定が変わってくれる筈もない。
「明日には食べる。それで良かろう」
「そういう問題じゃねェんだよ!」
そう言いながら、長曾我部自身も自分が毛利に対して理不尽なことを言っている自覚はあった。記念日だなどと言えば毛利が厭がるのは分かっていたから、黙って用意していたのは自分の勝手だ。言わないでおきながら、毛利を責めるのはお門違いだ。長曾我部もそれは分かっている。ただ、今まで積もり積もった小さな不安が爆発しただけなのだ。毛利とこういう関係になってしばらく経つが、言葉にも態度にも感情を余り出さない恋人に、自分は本当に愛されているのか、長曾我部は今だに信じきれてはいなかった。毛利が嫌いな相手と暮らせるような性格でないことも重々わかっている。ただ、拒絶するのも煩わしいから共にいるだけではないのか、結局は自分の一人相撲なのではないかという不安が、どうしても消えない。
「もういい。明日は仕事あっからもう寝る。てめェもさっさと風呂入って寝な」
「何なのだ貴様は」
毛利は、自分から喧嘩を始めた癖に勝手に終わらせる長曾我部に、呆れた声を上げた。しかし長曾我部はそれには答えず、さっさと寝室のドアの向こうに消えた。毛利は今度こそ本当にため息を吐いた。ただでさえ疲れているというのに余計疲れた。長曾我部に言われたからではないが、風呂に入って頭をすっきりさせようと思い、浴室へ向かう。中に入ると、カゴの中に用意された自分の分の下着と寝巻が目に入り、お前は我の母親か、と毎度のことながら嗤い出しそうになる。しかし引き攣るように動いた唇は、そのまま再び深いため息を吐いた。
毛利の好み通りに熱く保たれた浴槽に身体を沈めながら、毛利は長曾我部のことを考えていた。自分が甘やかされているという自覚はあるのだ。何をするにしても長曾我部が先回りして全て済ませているから、それをただ甘受していればいい、至れり尽くせりの暮らし。感謝の気持ちが無いわけではないが、最初から長曾我部はそういう男だったから、そういうものかと思ってそのままにしていた。実は無理を重ねた末の今日の爆発だったのなら自分にも非はあったのだろうが、今さら感謝の気持ちを伝えるなど、気恥ずかしくて出来そうにない。
どうしたものか、と毛利はぶくぶくと浴槽に沈んだ。
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翌朝、長曾我部はカーテンの隙間から差し込む光で目が覚めた。起きてすぐダブルベッドの隣を確認するが、毛利の為に空けていた場所にその姿は無く、微かな温もりすら残ってはいない。もしかしたらリビングのソファで寝たのかもしれない、と昨夜の自分の態度を後悔する。立ち上がって寝室のドアをそっと開けると、リビングにも毛利の姿は無かった。不審に思って時計を見ると、まだ6時を過ぎたくらいだ。会社に行った訳ではないだろう。寝室に取って返して、携帯電話を確認すると、20分ほど前にメールが2通。
1通目。毛利からだった。
――『散歩に行ってくる。すぐ帰る』
そう言えば毛利には、時折早朝に散歩に出て日の出を拝む妙な習慣があった。一度一緒に行ったことがある。最近はあまり無かったが、今日は気が向いたらしい。そして2通目。これも毛利からだ。
そのメールを見た瞬間、長曾我部は慌てて着替えてマンションを跳び出していた。部屋の鍵を掛け忘れて一旦戻る。そしてまた再び駆け出した。口元が緩むのを止められない。毛利がどんな顔をしてあんなメールを打ったのか、想像しただけで笑み崩れそうになる。今はとにかく毛利に会いたかった。会って、この手で抱き締めたかった。
記憶の中の毛利の散歩コースを辿りながら走っていると、道路を挟んだ反対側に、こんな朝早くから人が集まっていることに気付く。何かと思ってそちらを見ると、どうやら人が倒れているようだ。道路についたタイヤ痕と、その先にある乗用車の傍でパニックを起こしている男の様子からすると、どうやら人身事故のようだった。長曾我部は、ふと気になって少し近付いた。良く見ると、倒れているのは若い男のようだった。まさか、と思いもう少し近付いてみると、頭を打ったらしく、倒れ伏した男の長めの栗色の髪の下には、赤黒く血溜まりが出来ている。
どくん、と心臓が鳴った気がした。
まさか、そんな訳がない。長曾我部の足はその場で凍りついて動かなくなった。確かめたくない。もしあれが毛利だったら、など考えるだけで血の気が引く。だって、毛利は言ったのだ。メールではあったが、言ったのだ。
――『我の帰る場所は貴様の元だけぞ』
「こんなところで何をしておる?」
後ろから声を掛けられて、驚いた長曾我部の身体が跳ねた。反射的に振り返ると、怪訝な顔をした毛利が立っていた。半ば最悪の想像に捕われていた長曾我部の思考は、すぐには元に戻らない。毛利は、何も言わずに見つめてくる長曾我部を不審げに見遣りつつ、人だかりを覗き込むように見た。
「事故か。誰ぞ警察や救急に連絡はしたのか?」
「―――さっき誰かしてたみてェだ」
「そうか。ところで貴様は何をボケっと突っ立っておるのだ」
「―――毛利」
「何だ」
「毛利、毛利」
壊れたレコードのように、それしか言葉を知らぬように、長曾我部はただ毛利の名を呼ぶ。ふらりと上がった手が毛利の身体を捉え、腕の中にきつく抱き込んだ。朝とは言え人目のある、しかも事故現場でそんなことをするものだから、毛利は慌ててその腕から逃れようともがいた。しかし余計に力がこもるその腕からは逃れられない。諦めてされるがままにしていると、長曾我部は毛利の耳元で絞り出すような声で言った。
「おかえり」
「――…それは家に帰ってから言うことではないのか」
「いいんだよ。俺はここに居るんだからよ」
余裕を取り戻してきたらしく、少し笑いを含んだ声で長曾我部が言う。毛利は長曾我部の、いつもの全身を包み込むような温かさを感じて、心の一部がほろりと解けていく気がしていた。本当に、甘やかされていると思う。
「おかえり、毛利」
長曾我部はもう一度、優しく呟いた。