いけない林檎
母が臥せったとき、わたしは兄が狂うと思っていた。
おなじ場所でおなじようにつくられたのだから、わたしはもっとも兄を理解していると思っていた。あたたかいみずに満たされた、わたしたちにとって世界でいちばんおだやかでやさしいあそこを、兄がなつかしんでることも、戻りたいという願いも、すべて識っていた。ただ、わたしはその記憶をほとんど失っていたので、わたしは兄を羨むしかなった。
そこから出てくるとき、わたしがつけたちいさな傷により母の胎がくさりはじめたとき。母から排出された血のくろさを見たとき。わたしは、兄がわたしを殺すと想像した。わたしより数段鋭利なそのゆびさきで、脆弱なわたしの喉笛を掻ききってしまうと思った。
しかし、兄は笑んでみせたのだった。
わたしの後悔はただひとつ。うまれてきたことだった。若しくは。兄と同じ場所を、時間を共有できなかったこと。わたしと兄はよく似ている。兄のほうが美しかったが。その迷いのなさに、わたしは怯え、そのつよい意志を畏怖し、賞賛した。わたしは兄にひれふしていたのだ。まったく同一の存在であったなら。兄もわたしもこんなに苦しむことはなかったのかもしれない。兄は頷くだろうか。そんなことは識らない。だって兄とわたしはこんなに違う。こんなに似ているのに。
そしてそうやって、わたしの愚鈍さを嘲笑う。
「母さん、かえせよ」
立ち込める血のにおいに蹂躙されている。兄が微笑む。
もうお前しかいないんだよ。兄の手がわたしの頬をなぜる。ぞわり。