ささやかな…
「少し具合が悪いんだ」
朝の挨拶代わりにそんな事を言われて、一瞬頭の中が真っ白になった。
バスカヴィルの民は怪我をしても直ぐ治る、病気になったという話も聞いた事がない。
もしかしたら彼の封印がまだ完璧に解けていないから未だに人間と同じなのかもしれない。
…不治の病とかだったらどうしよう。その場合は封印が解けたら直るのだろうか?
ぐるぐると思考しながら、彼の額や頬や首などに手を這わせる。
熱くない。熱が高いというわけではないらしい。
「どこか痛い?吐き気とかは無い?医者を呼ぼうか?」
本当なら部外者に頼りたくない、彼を見せたくない、けど彼の為なら仕方ない。
それに…いざとなったら消せば良いのだから。
「…大丈夫、1日眠っていたら治るよ」
ぼんやりとした表情でほんの少しだけ微笑むと、彼は再び漆黒の美しい瞳を閉じた。
主人の命令に反して医者を呼ぶわけにもいかず、1日様子を見る事にした。
食事は一応食べてくれるけど、話しかけてもぼんやりとしていて反応が鈍い。
食事を終えると、また眠り始める。
趣味の読書もせず眠り続ける彼を見ていると、無理にでも医者に診せるべきではないかと思う。
「…本当に大丈夫?やっぱり医者に診てもらった方が」
「大丈夫だから心配しないで、明日になれば元通りになるから…おやすみ」
「……おやすみ」
黄金の光が舞う深い闇色の瞳が閉じられたのを確認してから灯りを消す。
…やはり明日まで待たなければいけないらしい。
本当は付き添っていたいのだけれど、彼は望まないだろう…。
「おはよう」
「…おはよう」
翌朝、彼の部屋を訪れると、彼は着替えを終えて長椅子に腰掛け分厚い本を読んでいた。
「身体の具合は?大丈夫?」
「大丈夫だよ、明日になれば元通りになるって言ったはずだよ」
「でも…」
「…ごめん、具合が悪いっていうのは嘘なんだ」
「え?」
読んでいた本を閉じると、彼は信じられない事を言い始めた。
嘘?何の為に?
「心配かけてごめん、昨日のあれは僕のわがままなんだ」
「どうして?」
「……夢を見てね、眠れば、夢の続きが見られるんじゃないかって」
「そう…嘘で良かった。君が無事ならそれで良いんだよ…さあ、食事にしようか」
「…うん」
嘘で良かった。そっと胸を撫で下ろし、食堂に向かう彼の後についていく。
嘘を吐いてまで見たかった夢の内容の事は聞かなかった。
聞かなくても想像はつく。
普段わがままを言ったり、嘘を吐いたりしない彼が嘘まで吐いてまで見たかった夢。
彼の幸せだった頃の夢、いや、彼の主人が出てくる夢かな。
彼は主人の最期を知らず、事件の後葬儀に出る事も許されなかった。
写真も手元に無く、彼の記憶に残る最後の主人の姿は凄惨な姿のはず。
そんな彼が夢の中で生前の主人に逢えたのなら、一日中眠り続けるだろう。
たとえ眠れなくても瞳を閉じて待ち続けるだろう、主人が再び現れてくれると信じて。