あたたかいもの
「おい、もうやめろよ……お前ひどい顔してんぞ」
兄の声がひどく遠く聞こえる。今はそれどころじゃないんだよ、と口を開こうとも唇が重くて声が出ない。ただ自分が恨めしそうな視線を兄に向けていることだけはまだ自覚があった。
「だまっててよ」
「黙らねぇ。お前、予定用事仕事って口を開けばそればっかりじゃねえか!人間休むのは大事なんだぞ」
ざわざわと胸のなかで黒く渦巻くものがある。言ってはいけない一線を越えてしまおうとする自分を自制するほどの感情はいまの自分にはない。身体は鉛を孕んだように重く冷え切っていたが、兄が掴んだ手首だけはなぜかひどく熱を持っている気すらした。
「そうだね、僕は悪魔じゃないから」
そう言いながら手を振り払ってやれば兄の目が見開かれる。彼の心は少しでも傷ついただろうか、もっとその表情がぐちゃぐちゃに歪んでしまえばいいのに、と呪ってしまいたくなる。それと同時におそいくるこの虚無感はなんだろう。
――いけないことであることくらい知っている。
理解もしている。幼いから養父に言い聞かせ続けられた兄すら知らない兄の秘密。自分がここまでくる何年もの間に染み付いた彼という存在の異質さから自分は兄を守らなくてはならない存在なのに、そうすると決めた筈だ。それなのに衝動に抗いきれない自分はきっと兄が言う通り、弱ってしまっているのだろう。だけどそれを認めたくない自分はひどく愚かだ。
「寝ろ」
「殴らないんだ。ひどいこと言ってることくらいわかってるんだよ。ねえ傷ついた?実の弟に化け物と同義のこと言われてるんだよ兄さん」
「……うるせぇ」
「ねえもっと顔見せてよ」
あわよくばその唇に口付けてやろうか。どんな顔をする?どんな言葉を吐く?
加虐心ばかりが芽生えていく自分を兄は殴るだろうか。彼の手がゆっくりと上げられた時、不思議と自分はいやな気分ではなかった。
だが、おとずれたのは頬への熱い痛みではなく、唇への感触。胸倉を掴まれ、ぐいとひっぱられたせいで勢いよく歯と歯がぶつかったのにも気にすることないような表情で兄はそこにいた。
「ばあか、そんだけ口が回るってことはよっぽど疲れてるんだろ、お前。昔っから怒ったり疲れたりするとよくしゃべるようになるんだからな」
「にい、さん?」
「黙って寝ろ。寝れないなら寝れるまで一緒にいてやるから」
「……兄さんが寝たいだけじゃないの」
「ちっげぇよ」
毒気をすっかり抜かれてしまって思わず重い溜め息を吐きだしたあと、僕の口からは不思議と笑いがこぼれた。
「全くかなわないな」
「当たり前だろ、俺はお前のにいちゃんなんだから」
ぐいぐいと背中を押されるままにベッドに潜り込む。じっと兄を見つめれば少しだけ気まずそうに目をそらしてくる。その細い手首を少しだけ強い力で掴んでやればぱちくりとこちらを見つめ返してきた。
「一緒に寝ないの」
返事を言わせる間も与えずにベッドに引きずり込んで後ろから抱きかかえてやればじたばたと暴れてくるものだから、狭いベッドの中がますます窮屈に思えた。
だが、なぜ不快でないのか。
「ったく……今回だけだぞ」
「そう言いながら寝ぼけて時々入ってくるくせに」
「それと今回とはまた話が別だろ!」
ありがとう、と自分がちゃんと言葉を紡ぐことが出来たかどうかはすでに覚えていない。懐かしい匂いと空間に包まれた途端、意識は絡め取られていくかのように沈んでいく。真っ暗闇の夢の中で僕が唯一見つけることが出来るのは気高くあたたかい、青い炎だけだ。