手を握って
――ずっと、泣いてばかりいた気がする。
それを認識することのできる目をもつ雪男は子供たちのコミュニティからすれば異端であったことを幼い頃の自分は知らなかった。その存在を信じはしなかった同級生からは気味悪がれ、ひどいときは暴力で自分の言葉をねじふせられた。そして幼い頃の雪男はいつしか、口を閉ざし、言葉に出来ない恐怖や悲しみを涙で流した。養父が自分に手を差し伸べてくれるまでは。
養父は“悪魔”についての正しい知識を与え、対処する手立てをくれた。彼の存在に自分は幾度となく救われている。心が弱れば寄ってくるのだ、涙を流して周りが見えなくなれば自分の身体が自分のものでなくなるかもしれない、だから強くなれと彼は幼い自分に語りかける。
それでもエクソシズムという知識を得た自分でも恐怖を完全に拭い去ることは出来ていなかった。それを学ぶということはいつも自分を守ってくれていたあの燐の背中の後ろから出ていくということ、前に進むことなのだ。自分は生身のまま世界に晒される。
――おまえがいうなら、そういうの、いるってしんじてもいいかもしれないな。
怖いと思わなくなったのは自分が深く慕う兄である燐が、そう言ったからだ。彼は自分を否定しない。神様も天使も悪魔も妖精も、天国も地獄もあってもいいかもしれない、と言った彼の笑顔は眩しくて、天使がいるならきっとそれはにいさんだ、と幼心ながら思ったことを雪男は今でも覚えている。
守りたいのだと思って以来、自分は必死であった。自分に力と知識を与えてくれた偉大な聖騎士である養父を、これから幾度となく危険に襲われるであろう兄を守りたかった。守られてばかりの自分から生まれ変わり、大切な人を守ることのできる手を持ちたかったのである。
そしてその気持ちは兄が15を迎え、覚醒することで大きく変わってしまった。
彼の不幸を嘆き、どうして彼にだけその責を負わせるのかと自分のふがいなさ、無力さに歯を食いしばることが増えた。他の祓魔師と任務に出ることで“あの奥村燐”の弟であるお前は本当に大丈夫なのか、しかしあんな面倒な肉親がいたら平和にも暮らせないよなかわいそうにと言われるたびにその苛立ちで人が殺せそうだも思う。
だが、その感情は悪だ。悪魔を呼び、自らを滅ぼす憎悪であることを雪男は理解していた。
「なんでだよ雪男……」
身体に力が溢れるのを感じることに喜びを覚えた。これで兄を、燐をこの檻から連れ出していけるのだと思った。ここは彼には優しくないのだ。自分は彼を守りたくて、彼を救いたくて祓魔師になったはずなのに向けられる言葉は「さっさと死ねばいいのに」「あんな肉親がいて恥ずかしくないのか」「いざというときは、あなたが殺して下さい」と無情なものばかりでもううんざりだった。なんど黙れ、と心中で呟いたか。自分が兄の力を持っていれば今すぐにでもお前の首元なんて掻っ切って殺してやると深く憎むようになったのはいつからだっただろう。
「これでおそろいだね、兄さん」
――そんな顔をしないでくれよ、これも全部兄さんの為なんだから。
雪男は願ってしまった。もう消えてなくなればいいのだと。燐に優しくない世界なんて要らない、彼ばかりが重い十字架を背負い生きていくことなどしなくてもよいのだ。
きっと優しい兄は自分の行為を是とは言わないだろうことを知っていた。自己犠牲で世界が救えるほどの一人が持つには大きすぎる力を持つ燐は、自分を抑制して世界を守ることを選ぶだろう。
「わけわかんねえよ、なんで、なんでお前が」
「さあ、なんでだろうね」
――兄さんに幸せに生きて欲しかっただけなんだ。
それを邪魔するものが憎くて憎くてたまらなかっただけ。
「ぜってぇ止めるぞ」
「僕は兄さんとたたかいたいわけじゃないから」
「逃げるのか」
「違うよ」
ただ、と雪男は微笑む。
「兄さん以外はこの世界には要らないと思った、だけだよ」
燐の目が見開かれ、悲哀にも似た感情がその顔には溢れていく。否、あれは絶望だろうか。
昔、人に言われたことがある。「お前はあの青い炎を継がなかったと言うが、その感情の持ち方はまるで魔神のようじゃないか」と。当時は軽く流した言葉だが、今となってそれを思い出せば笑いが止まらなくなる。愉快なのか不愉快なのかは判断もつかない。
「だから壊すんだ」
邪魔をするならきっと自分は目の前にいる愛しの片割れですら殺してしまう。誰かがこの自分の感情に名前をつけるのなら、憎悪でもなく愛憎でもない、ただの諦めだろう。諦めと絶望。足掻き、それを覆そうとするまでの想いを雪男は抱くことが出来なかった。
「嗚呼、だけどひとつ欲しいものがあるんだ」
一瞬で距離を詰めて雪男は燐に笑いかけた。燐の心の臓の辺りに指を置く。雪男から発される威圧感に自らとの力の差を燐は思い知るしかない。冷や汗がその背中を伝い、動くことなんて出来なかった。
「兄さんの炎、僕に頂戴」
まるで、子どもがねだるような声音だ、と燐は思う。そして唐突に自分の身体から力が抜け、その場に地をつけ立っていることすら不可能になるほどの脱力感に襲われていく。目の前にいる弟は、確実に今までの彼とは違う存在だった。中身としては同じなのかもしれないが、その圧倒的存在感はまるで、養父を亡くした時に出会った魔神そのものではないか。
「あいしてるよ、兄さん」
世界がフェードアウトするというよりは、まるでテレビの電源をぶちりと切った時のような感触を残して燐は意識を失うのを止めることも出来ないようだ。意識を手放したくなくて必死に唇を噛もうとするが、もう噛みしめるほどの力も残っていない。
「ゆ、き」
「 」
――なんでお前が泣きそうな顔、してるんだ
燐は彼を抱きしめることが出来ない。自分には何も出来ないかもしれないが、だけど今、無性に雪男を抱きしめたいと思ったのに、自分にはそれすら出来ない。雪男の唇が動いたのを最後に、燐の記憶はぶちりと途切れた。