手を握って
兄――燐が寮の窓に肘をつき、そっと眼差しを遠くに投げているのを帰宅したばかりの雪男は見上げていた。まるで燐のそれは何かを追憶するような、そこにあるものを見つめてはいない目元だ。きっと彼は夕暮れを見ている。自分の力を抑制できずに人から後ろ指をさされて涙をこらえた夕暮れの中に居るのだろう。きっと今日の夕暮れよりもその夕暮れはもっと、赤い。
「兄さん、ただいま」
「おう、おかえり。飯、もう出来てんぞ」
ぼんやりとした燐は雪男が玄関先にまで辿り着いていることに気付いていなかったようだ。聞き慣れた声であるはずの雪男の声にびくりとし、一瞬の間を持ってへらりと笑った。それは雪男と今は亡き養父以外の人間が見てもおかしいとは思わないような、彼にとっては自然の笑みだった。だが、絶対的に何かが違う。例えばそれは声の張りであったり、頬への力の入り方であったりしたかもしれない。
――兄さんは嘘をつくのが、下手だ。
だが、彼が嘘をつくとき、何かを偽るときは絶対に追究したとしても白状はしないのである。ただ頑なに、なにもない、平気だ、お前こそなんだよ、と話をそらそうとする。雪男にはそれがわかっていたが故に何も言及はしなかったものの、彼の寂しそうな、いつもより小さく見え、ひどく頼りなげに見えた。
「今日のご飯、カレー?」
「そうだぞーやっぱり匂いでわかるよな」
「うん、おいしそうだ」
「当たり前だろ、誰が作ってると思ってんだよ」
階段を上り食堂へ入れば、芳しい香りが鼻をくすぐる。随分と自分の腹は減っていたようだ、と自覚すると突然その気になるのは人間誰でも一緒なのだろうか、と思いながらけらけらと笑う燐の顔を見た。いつも通りを装う笑顔の裏に一体何があるのだろう、雪男がその表面を引き剥がしたとして、一体何が見えるのか。
まだ、手は伸ばせない。
「服、着替えてこいよ。そんな重いの着てたら肩凝るだろ」
「お言葉に甘えてそうするよ。いつも食事の準備、ありがとう」
「俺に唯一まともに出来るのはこれくらい、だからなあ」
ほらほら行った行った、と手で示す燐の言葉に雪男はほんのりと違和感を覚える。茶化すように放った言葉だ。なんの他愛もない、軽口。だが、きっとあれが今の彼を捕えて離さない感情なのではないか、と雪男は思う。
燐は昔から、力加減も感情抑制も出来ない言うなれば問題児だった。暴力を奮っては他人から詰られ、素直な感情表現をすれば他人から距離を置かれる。彼は、ひどく不器用な子供であっただけなのに。だから燐は人一倍、やさしくなりたい、役に立ちたい、人に喜ばれたいという気持ちが強いのだろう、と雪男は理解していた。人のためとすることに裏切られることが多かった彼は、あらゆる手立てを失ってしまった。何もしないのが人のためだと言われ、自分の力を憎んでいた。
自室で着替えを済ませた雪男は燐の机の上に華やかな千代紙で折られた折り鶴を見つける。きっと作ったのはしえみさんだろう、と容易に想像することが出来る青を基調とした和柄の鶴は粗雑な燐には少しだけ不似合いな気がして、目を細めた。
「待ちくたびれたぜ、ほらほら、座った座った」
「先に食べててもよかったのに」
「そんなことしたら今まで待ってた意味がなくなるだろ!」
雪男がありがとう、と言って燐の向かいに腰を下ろすのを確認し、燐は手を合わせる。料理を作るのが好きな燐はこの辺りに煩い。手を合わせてちゃんといただきますと言え、ごちそうさまも絶対だぞ、と。
「いただきます」
あのまなざしはなんだったのだろう、と思うほどのいつも通りの燐だと思っていた。その目の前にあるカレーを口にするまでは。
「あれ……兄さん、味変えた?」
「へっ」
予想外の一言だったのか、燐は雪男の言葉に瞬きを繰り返し、スプーンですくい上げたカレーを口に放り込んだ。
「あ……わかった」
「もしかして何か忘れた?」
「コンソメ入れんの忘れた」
ああ、なるほどね、と雪男が頷くと、燐は眉を下げてごめんなあ、と小さく呟くように口にした。
「別に謝るほどのことでもないでしょ、おいしいよ」
「おう、次は気をつける」
「僕からしたらこれを作れるだけでもすごいんだけどね」
ふふ、と頬を緩めれば少しだけ安心したらしい、顔をくしゃりと歪めて燐は笑った。彼の存在を身近に生きてきた雪男はその表情に彼の弱さを見つけてしまう。きっと燐自身は、自分が泣きそうであったことに気づいてはいないのだろう。
今、目の前にいる燐はひどく不安定な存在だ。雪男にはそれがわかっている。だけど何もできない、自分には彼の重荷を一緒に背負ってやることもできない。無力さを思い知ってしまう。未熟児だったとかそんなことは関係ないのだ、結論として兄ひとりに全ての責を負わせてしまったことには変わりないのだから。
その日の食事がひどく味気ない気がしたのは、きっと兄のミスの所為だけではなかったと、そう雪男は思う。
「兄さん、ただいま」
「おう、おかえり。飯、もう出来てんぞ」
ぼんやりとした燐は雪男が玄関先にまで辿り着いていることに気付いていなかったようだ。聞き慣れた声であるはずの雪男の声にびくりとし、一瞬の間を持ってへらりと笑った。それは雪男と今は亡き養父以外の人間が見てもおかしいとは思わないような、彼にとっては自然の笑みだった。だが、絶対的に何かが違う。例えばそれは声の張りであったり、頬への力の入り方であったりしたかもしれない。
――兄さんは嘘をつくのが、下手だ。
だが、彼が嘘をつくとき、何かを偽るときは絶対に追究したとしても白状はしないのである。ただ頑なに、なにもない、平気だ、お前こそなんだよ、と話をそらそうとする。雪男にはそれがわかっていたが故に何も言及はしなかったものの、彼の寂しそうな、いつもより小さく見え、ひどく頼りなげに見えた。
「今日のご飯、カレー?」
「そうだぞーやっぱり匂いでわかるよな」
「うん、おいしそうだ」
「当たり前だろ、誰が作ってると思ってんだよ」
階段を上り食堂へ入れば、芳しい香りが鼻をくすぐる。随分と自分の腹は減っていたようだ、と自覚すると突然その気になるのは人間誰でも一緒なのだろうか、と思いながらけらけらと笑う燐の顔を見た。いつも通りを装う笑顔の裏に一体何があるのだろう、雪男がその表面を引き剥がしたとして、一体何が見えるのか。
まだ、手は伸ばせない。
「服、着替えてこいよ。そんな重いの着てたら肩凝るだろ」
「お言葉に甘えてそうするよ。いつも食事の準備、ありがとう」
「俺に唯一まともに出来るのはこれくらい、だからなあ」
ほらほら行った行った、と手で示す燐の言葉に雪男はほんのりと違和感を覚える。茶化すように放った言葉だ。なんの他愛もない、軽口。だが、きっとあれが今の彼を捕えて離さない感情なのではないか、と雪男は思う。
燐は昔から、力加減も感情抑制も出来ない言うなれば問題児だった。暴力を奮っては他人から詰られ、素直な感情表現をすれば他人から距離を置かれる。彼は、ひどく不器用な子供であっただけなのに。だから燐は人一倍、やさしくなりたい、役に立ちたい、人に喜ばれたいという気持ちが強いのだろう、と雪男は理解していた。人のためとすることに裏切られることが多かった彼は、あらゆる手立てを失ってしまった。何もしないのが人のためだと言われ、自分の力を憎んでいた。
自室で着替えを済ませた雪男は燐の机の上に華やかな千代紙で折られた折り鶴を見つける。きっと作ったのはしえみさんだろう、と容易に想像することが出来る青を基調とした和柄の鶴は粗雑な燐には少しだけ不似合いな気がして、目を細めた。
「待ちくたびれたぜ、ほらほら、座った座った」
「先に食べててもよかったのに」
「そんなことしたら今まで待ってた意味がなくなるだろ!」
雪男がありがとう、と言って燐の向かいに腰を下ろすのを確認し、燐は手を合わせる。料理を作るのが好きな燐はこの辺りに煩い。手を合わせてちゃんといただきますと言え、ごちそうさまも絶対だぞ、と。
「いただきます」
あのまなざしはなんだったのだろう、と思うほどのいつも通りの燐だと思っていた。その目の前にあるカレーを口にするまでは。
「あれ……兄さん、味変えた?」
「へっ」
予想外の一言だったのか、燐は雪男の言葉に瞬きを繰り返し、スプーンですくい上げたカレーを口に放り込んだ。
「あ……わかった」
「もしかして何か忘れた?」
「コンソメ入れんの忘れた」
ああ、なるほどね、と雪男が頷くと、燐は眉を下げてごめんなあ、と小さく呟くように口にした。
「別に謝るほどのことでもないでしょ、おいしいよ」
「おう、次は気をつける」
「僕からしたらこれを作れるだけでもすごいんだけどね」
ふふ、と頬を緩めれば少しだけ安心したらしい、顔をくしゃりと歪めて燐は笑った。彼の存在を身近に生きてきた雪男はその表情に彼の弱さを見つけてしまう。きっと燐自身は、自分が泣きそうであったことに気づいてはいないのだろう。
今、目の前にいる燐はひどく不安定な存在だ。雪男にはそれがわかっている。だけど何もできない、自分には彼の重荷を一緒に背負ってやることもできない。無力さを思い知ってしまう。未熟児だったとかそんなことは関係ないのだ、結論として兄ひとりに全ての責を負わせてしまったことには変わりないのだから。
その日の食事がひどく味気ない気がしたのは、きっと兄のミスの所為だけではなかったと、そう雪男は思う。