しあわせにしてあげる
とある日の放課後のことだった。人吉善吉は、自分の教室に忘れ物を取りに生徒会室を出て、渡り廊下を歩いていた。そして、そこで偶然その男に出会った。男はまるでここで出会うのが必然だと言わんばかりに親しげに近寄ってきて、挨拶もなしに唐突に切り出したのだった。
「『あのね善吉ちゃん』『僕は考えたんだ』」
球磨川禊はそう言って微笑んだ。笑った顔は可愛かった。
中学時代の三年間を含め、球磨川という男は何もかもどこまでも終わりきっていたが、その外見だけは、はっと息を呑むほど愛らしい。
自分は知っているはずだ、この無邪気な笑顔は模倣に過ぎない。おおかたテレビで見たアイドルが似たような笑みを浮かべていたに違いない。自分は知っているはずだ、球磨川に誰かと笑いあえるような友達なんかいない。だから球磨川は一生かかっても友愛の笑みを浮かべられるはずがないのだ。
それだというのに、脳と体は本能的に、怖いものから怖い部分がちょっとだけ取り除かれたことに安堵してしまう。もっともそれは、がくがくとしていた足の揺れが、震えと呼べるレベルになっただけだった。
球磨川はそれを見逃してくれるような男ではなかった。恐怖しているのはわかっているだろうに、敢えて、ずいと距離を詰めてくる。向かい合う立ち位置が近くなって、思わずびくんと肩が跳ねてしまった。
「『そんなに怯えないでいいよ』『何もしないから』」
球磨川は言う。
「『でもそうだね』『めだかちゃんが来る前にお話をすませようか』」
「めだかちゃんが来る前に……? なんだよ、生徒会戦挙のことを言ってるのか!?」
大好きな黒髪の少女の名前が出て反射的に怒鳴ってしまうが、球磨川は意に介さない。
「『やだなあ』『そんなわけないだろ』」
「じゃ、じゃあなんだよ」
「『んーっとね』」
球磨川はわざとらしく片手を顎に当ててみせた。
「『僕はね』『不知火理事長の思惑に乗っかってこの箱庭学園に転校してきたわけなんだけど』『そもそも不知火理事長の目的は』『みんなを幸せにするってことなんだよね』『めだかちゃんとは過程が違うけど』」
そこで言葉を一旦切った球磨川は、わざとらしく憂いた顔をしてみせた。
「『でもさ幸せの基準って』『みんな違うじゃない?』『美味しいものを食べるのが一番の幸せって人もいるし』『お金持ちなのが幸せって人もいる』『だから幸せってどんなものなのか』『みんなにアンケートしてみることにしたんだ』」
詰められた距離を身動ぎすることで再び取り戻し、球磨川から意識を外さないように気をつけつつ周囲を窺う。人の気配はしない。これなら他のマイナス13組生の追撃を受けることも、一般生徒を巻き込んでしまう危険性はないだろう。球磨川は確かに恐るべき過負荷の持ち主だが、戦闘という一点においては、以前対峙した高千穂や宗像に遙かに及ばない。
(どうせ裏があるんだろうけど……、とりあえずは乗ってみっか)
そう腹を括り、恐怖で逃げ出したくなる衝動を必死で自制し、球磨川に向き合った。
「それで俺に聞きにきたってわけか?」
「『そうなんだ』『教えてよ』『善吉ちゃんはどんなとき幸せ?』『教えてよ』『善吉ちゃんも幸せにしてあげる』」
それは蛇の甘言によく似ていた。緊張でからからに乾いた喉が、ひくんと鳴った。
「……俺は、大好きな人たちみんなと一緒に過ごすときが一番幸せだよ。めだかちゃんと一緒に生徒会活動に勤しんでるときが、一番だ」
「『ふうん』」
球磨川はうんうんと何度か頷き、再び愛らしい笑みを浮かべた。その笑みにちょっとだけ人間らしい何かが混ざっているような気がして、もしかして説得が通じたのかと、胸の奥で期待が頭をもたげた。
その気持ちが、一瞬だけ判断を鈍らせた。
後に悔いるから後悔なのだ。自分は知っていたはずだ、球磨川禊という男はいつだって、縋りつきたくなるような嘘を吐くのだから。
「『でも駄目』『全然駄目だよ』」
甘い声が耳朶を打って、気づいたときには球磨川の腕の中に抱き締められていた。
やられた。『大嘘憑き』で、二人の間にあった距離をなかったことにされた。
耳に濡れた舌が這っていく感触に、ぞわりとしたものが背筋を駆け抜けていく。
「『善吉ちゃんは欲張りだね』『とっても可愛いよ』『でも駄目』『全然駄目だよ』」
怖い! こんな怖いものが近くにいるなんて信じられない。怖い。何をされるかわからなくて怖い。意思の疎通ができなくて怖い。危害を加えられるかもしれなくて怖い。理解できなくて怖い。意味がわからなくて怖い。怖い。怖い怖い怖い。球磨川に抱き締められた全身が逃げ出したくて悲鳴を上げている。球磨川が笑んでいる。とっても愛らしい偽りの笑顔をしている。
「『もっと満足の基準を下げなくちゃ』『なんたって僕はマイナスだよ?』『君もほら』『それ相応に幸せにしてあげるよ』『まずは服を脱いで』『二足歩行の禁止から行こうか』『なんでそんな顔してるの?』『手足を切り取られなかっただけよしとしなきゃ』『上を見てたら切りがないよ』『善吉ちゃんをしあわせにしてあげる』『善吉ちゃんをしあわせにしてあげるよ』」
周囲を窺う。人の気配はしない。黒髪の少女はやって来ない。
恐怖で意識が千切れそうになりながらも、最後に見たのは、幸せそうに笑む球磨川の姿だった。
作品名:しあわせにしてあげる 作家名:ジェストーナ