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ライ麦畑でつかまえない

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俺があの子供を愛していたのは事実であった。くつがえせないただの事実。誰がどんなに反対しようとも、俺は自分の考えを曲げはしなかった。だって、嘘だらけの世界に頭の先までどっぷりと浸っていてその上いっとう大事なものまで嘘を吐いてしまったら、きっと俺は俺以外の生き物に変化してしまうことが分かっていたのだ。
リボーンはそんな俺をたしなめたりなどしなかった。かと言って受け入れようともしなかった。俺が愛していると言えば、気どった風に口の端をあげてそうかいとだけ言ったし、俺が頬に熱いキスを落とせば、うざったいと殴ったりもした。けれども、あの子は決して俺が彼を愛することをたしなめようとも、罵ろうとも、止めようともしなかった。柳に風とでも言うのだろうか。その身を吹く風に揺らしながら、風が止めばなにもなかったかのように動きを止めてしまう。俺の口にする言葉、やること、何もかもにそれなりの反応を見せるが、俺が一端それを止めてしまえば彼もまた行動を止める。まさしく彼は柳であった。
また俺の方も口で言いながら、決して一線を越えようとはしなかった。やろうと思えばなんでも出来たのだ。彼を押し倒すことも、なにもかも。けれど、弱虫でぐずな俺は、砂埃でほとんど消えかかっていった白線を踏み越えることなく、ちかちかと光る黄色信号を怯えて見守るばかりだった。

「待っているんじゃないですか」
ある時俺の部下で、右腕(もはやその呼称は自称ではなくなっていた)の彼は、いい加減あいつもなびいてくれないもんかねとぼやいた俺に、そう言った。彼は、俺とあの子の関係を気に食わないとするものの中で、急進派と呼べる人だったが、酒の席でいちばんアルコール度数の高い飲み物を一口であおってからそう言った。眼はすわっていた。俺の返答次第では脳天を撃ち抜くぞと言った感じの眼であった。撃ち抜かれるのは嫌なので俺はおどけて、君は反対しているんじゃあないのかとだけ言った。
「反対してます。そりゃあ、もう、反対してます。十代目がよりによって男となんて、しかもリボーンさんだなんて! 確かにあの人は強いです。べらぼうに。馬鹿みたいに。それに頭だっていいし、男前だ。でもね、十代目、あの人は駄目です。あの人じゃあ十代目は幸せになれません。それは男だからとかそういうことじゃなくて、あの人は十代目を幸せにしてくれないんです」
「どうして君はそう思う?」
「愛しすぎちまうからです」
がつん、と手に持ったグラスをテーブルに叩きつけた。入っていた中身が飛び、彼の一張羅をしとどに濡らしてしまう。
「あの人は待ってるんです。貴方が本当に受け入れられるかどうか。あの糞重たい愛を受け入れられるかどうか。あの人は、貴方が受け入れられることを悟るまで絶対に首を縦に振ろうとはしない。ただ、一度でも受けいれられると思ったら容赦ない。きっと、骨の髄までしゃぶりつくしちまいます。確かに、それはある意味幸せなんでしょう。あの人も貴方も幸せになれるに違いありません。でも、俺は嫌なんです。貴方にそんな形で幸せになってもらいたくないんです。もっと、こんな糞みたいな世界に浸っているのに何言ってるんだって感じですが、もっとずっとまっとうに幸せになってもらいたいんです」

その夜を契機に俺はあれだけ嫌がっていた結婚をついに承諾した。ちなみに京子ちゃんではない。彼女よりももっと毒気の強いうつくしさを持った、頭のいい女性だった。俺たちはそこそこうまくやった。彼女は十一代目ドンボンゴレを産んで、より一層自信を付けた。付けた挙句次期幹部候補と浮気をして死んだ。殺したのはあの子だった。俺は、きっとあの女性を愛してはいたのだろうけど、そのことに対して何の禍根も抱かなかった。それどころか今までよりももっとずっとあの子を愛したのだ。それから何人かと付き合い、愛を交わし、結婚をしたこともあったが、彼女たちがその人生を全うしたことはなかった。いつだって生の半ばで死んでしまったからだ。あの子が殺したから。

気付けば、俺も大分いい年になっていた。とある抗争で、足をやられて車椅子生活を強いられることになった俺は、十一代目にとっととすべてを託して田舎に引っ込んだ。秋になればわっさわっさと麦が実る豊潤な土地だった。適当に人を雇って収穫させ、適当に儲けを手に入れて、適当に生きてきた。波乱万丈血なまぐさいそれまでと比べれば、なんともまあうつくしい生き方だろうか!
とある秋のことであった。俺は庭に置いた椅子に座り、畑を見つめていた。風に揺れる麦はひどくうつくしかった。あくびがでちまうほど。実際ほとんど眠りかけていた俺を起こしたのは一人の赤ん坊だった。小さなスーツに身をつつみ、小さな山折れ帽を被って、俺の膝の上に乗っかった赤ん坊はじいっと俺をその大きな瞳で見つめていた。
「やあ、久しぶり、リボーン」
「ちゃおっス」
「元気してた? 俺は元気だよ。見りゃわかるか。でも、ねむいんだ。ここは時計が必要ないくらい穏やかだからね。ついつい寝ちまうんだ。お前も寝たら?」
「まだか?」
俺の言葉をすべて無視して、あの子はぽつりと言った。切実な響きはそこにはなかった。けれども、待ちくたびれて飽きてしまったような、そんな響きはあった。俺は言った。
「彼女たちを殺したのはお前だね?」
「……」
「殺すための理由をどうにかこうにかして植え付けて、芽生えたらずどん!だ。ああ、そんな顔をするな。俺はお前を怒っちゃいないよ。悲しんでもいない。彼女たちを可哀そうだとも思ってない。でもね、リボーン、重たいんだよ。俺にはね。お前のたっぷりとした生クリームのような愛はね、ひどく重すぎるんだ」
あの子は無表情のまま俺を見つめていた。それから、頬に軽くキスをして、俺は愛してなんかいねーぞとだけ言った。それは嘘だった。誰もが知る嘘だった。
「俺はお前の愛を受け入れられないよ。でもね、お前を愛しているんだ。それは、確か」
マシュマロのような頬にキスを返してやれば、肩をすくめて受け流される。いつもと同じ。何十年も変わらぬ俺たちの儀式。
リボーンはひょいと簡単に俺から降りて、どこかへ行ってしまう。その小さな姿はやがて麦に隠れてすっかり見えなくなってしまう。
作品名:ライ麦畑でつかまえない 作家名:ひら