わからずや
忍びとしての仕事を終え、幸村に報告を済ませたところで呼び止められた。戦の準備をうながす言葉に、佐助が不在の間に武田信玄から命が下ったのは明らかで、佐助は予感を押し殺し努めて軽い口調で聞き返す。
「へぇ、急にどちらまで」
「大坂にゆく」
佐助の計らいもむなしく、迷いのない幸村の声は佐助の予想を撃ち抜いた。幸村の言葉の裏にあることは、その因縁をつぶさに見てきた佐助にはあまりにも簡単に想像がつく。幸村は、伊達政宗との因縁にけりをつけようというのだ。けっして佐助のほうを見ようとはしないするどい視線がそれを物語っていた。
「親方様が決着をつけよと。敗れることはならぬ、といわれた」
それはつまり、いかなる戦いになろうとも今度は止めはせず、仲裁することもないということだ。そしてその言葉は、佐助が手出しすることを禁じてもいるのだろう。佐助は唇を噛んだ。
だれよりもそばにいるのに介入することはできず、万が一のときにはその死を目の前にしろというのだ。佐助は観察者でしかなく、ただの報告者になれと強いられている。それを幸村もわからないわけがない。
だがそれでも、この戦いは幸村の望んだものなのだろう。鎧をつけていなくとも、その表情は戦場でのものと相違ない。生き生きとしたそれをもっとも近くで見ることをだれにも譲らなかった佐助が、そんな幸村の顔を間違えるはずもなかった。
「旦那……竜の旦那は強いですか」
「強い。だが勝たねば、親方様の背につくことは叶わぬ」
彼が身を置くのは、敗れれば死が待つ戦場だ。そして、常勝の武田軍において敗者が総大将のそばにいることなど不可能な話だ。常に勝者である誇りがあるからこそ、彼は戦場に立ちつづけているのだろう。
結局彼が生きるのは戦場であり、彼を生かすのは強さへの渇望だ。
「……旦那は、前ばかり見る」
佐助の様子が異なることに気がついたのか、幸村が振り返ろうとする。だがすでに時は遅く、佐助は一瞬で間合いをつめることにためらわなかった。忍びとして鍛えた筋肉がしなり、無防備な幸村の襟首をつかむことなどたやすかった。足を払うようにしながら、上体には力をかける。幸村にできたのは、咄嗟に受身をとることだけだった。勢いの割にそれほど大きな音がしなかったのは、幸村が余計な怪我を避けて、かけられた力にあらがわなかったためだろう。だが、それに感心するほどの一瞬も佐助にはなかった。
「佐助……っ、なにを、っ」
幸村の声に焦りがにじんだのは、その喉元に突きつけた刃のせいだろう。鎧を脱ぎ丸腰に近い幸村に対し、佐助の装備は万全なままだ。そんなふたりで勝負になるはずもない。
守るべき人間に刃を向ける。それがどれほどに愚かしく、無謀なことなのかはわかっている。なにせ、守り人は想い人でもあるのだ。
「旦那の視線は前に向かうばかりだ。あんたの前にいかなきゃ、その視界にすら入らない。けれど旦那のそこには、強さしか映っちゃいない」
刃は揺るがない。幸村の瞳はわずかに揺れながら、けれど佐助の視線とまっすぐにつながっていた。どちらが貫くのが先なのかはわからない。だが、目をそらすわけにはいかなかった。
「だから、あんたの視界に入るには武器を手にとるしかないって気がついたんだ……俺は、弱くないよ、旦那」
幸村は魅入られたように動かない。佐助の言葉の先にあるものを必死にたぐっているのだろう。だが、幸村には経験のない未知の感情にたどりつくまで待つのは、あまりにも長い。
一瞬の激昂は、冷水を浴びせかけられたように佐助を冷静にさせたが、同時にどうしようもなく焦らせてもいるのだ。組み敷いた身体の意外な小ささは、もはやよく知っているはずにもかかわらず、鼓動が追い立てられる。
「旦那の目が追ってくれるようになるには、こうして刃を突きつければいいのかい。それとも傷をつけて、血をながさせればいい?」
「佐助……ッ」
幸村がもがき、高く名を呼んだのは、佐助の手に力がこもったからだろう。首筋につめたい刃が当たる感覚は、幸村を混乱させているはずだ。佐助の問いかけの意味など考えてなどいられないだろう。だが、それでよかった。彼が考えたからといって、答えなど出やしない。ならば、と佐助はのしかかるように顔を寄せた。
冷静だと思っていた頭が一瞬で沸騰し、まさに時が止まったような感覚に陥る。幸村が咄嗟に飲んだ域すら食むようになったのは、別に受け入れられてのことではなく、なにかいおうとしていたからだろう。だが触れた粘膜の熱さに、佐助は我を忘れた。
「それとも……好きだとでもいえば、わかってくれるのかい」
呆然とした雪村は、こんなときでもやはりろくに理解はしていないのだろう。混乱をその身のなかに封じこめてしまうように、佐助は主を抱きしめる。
佐助の言葉もまた、彼の身体のなか、心のなかに留まればいいと、むしろ彼が大切に抱えてくれればいいのにと望みすらした。彼の心を震わせる、戦い以外のはじめてのものにしてほしかった。
たとえ叶わずとも、彼がはじめて知る恋情になることを、願った。
「……なぁ、旦那が好きだよ」
だから死なせたくない、とつぶやいても、幸村に佐助の気持ちが伝わることはない。わたしはまけない、と低く返されたのがその証拠だ。他人行儀でやんの、と佐助は苦笑う。
彼が生きるのは戦場で、彼を生かすのは強さだ。
「その刃はおれを守るのだろう?」
さすけ、と呼ぶ声のやわらかさだけが救いだった。