不眠症治療/2
真神学園3-C教室―――放課後
今日も一日の授業が終わった。訪れる睡魔との苦しい戦いにも辛うじて勝利し続けた梓麻は、大あくびをしながら帰りの支度を始めた。教科書とノートに混じって、空になった弁当箱を忘れずにしまう。
結局弁当の中身は半分も食べなかった。代わりに食べてくれる口と胃袋があったので、もったいないお化けの召喚は不完全に終わったのが唯一の幸いだった。
勢いよくいかにも旨そうに食べる二人の顔が思い浮かんだ。あれだけ美味しそうに食べてくれれば作った身としても大いに満足だ。きっと野菜や肉達も喜んで成仏しただろう。
次いで呆れる醍醐や微笑む美里の顔が浮かぶ。本当に何だか『お父さん』と『お母さん』といった感じの二人。そもそもこの四人が集まると、一男一女のいる家族風景の役割が、まるで家族の見本みたいにぴったりと当て嵌まった。おかげでやたら居心地よくて、ついその一員に加わってしまう自分がいた。それが現在の不眠症の原因であると気づいているはずなのに。どうしてもやめられない。
まるで悪い薬みたいだと思っていると、鼓膜が大きな衝撃に震えた。
「――焔樹!」
「えっ。なに?」
突然の呼び声に驚いて振り返ると、むっつりと口をへの字にした京一が立っていた。手には愛刀の入った包みを提げている。彼にとって帰り支度はこれだけらしい。
「なにじゃねぇよ。何度も呼んでるだろ」
「・・ごめん。気づかなかった」
「まったくよぉ。…何考えてんのかしらねぇけど、あんまりぼうっとしてると脳みそが溶けて流れ出るぞ」
京一流の気遣いに笑って応え、それでと用件を促した。
「ラーメン食ってこうぜ」
「あ・・ああ。ごめん。今日はちょっと用事があるから」
当然肯定が返ってくると思っていた京一は、断られて眉をあげた。
用事があるのは本当だ。今朝方大盤振舞して使い切ったおかげで冷蔵庫には何もない。帰りしなに夕食の材料を仕入れておくことは、今朝から予定していたことだった。
だがそれ以上に今は少し距離を置きたかった。慣れぬ雰囲気に馴染んでいく心を離して落ち着かせたかった。
「ふぅん。用事ね」
「だから、今日はごめん。また誘ってくれよ」
考えるように繰り返す京一に手を合わせてから、滞っていた帰り支度を終わらせた。
とりあえず早く帰ろう。あまり遅くなるといい食品もなくなってしまうし、何より半ば後ろめたい気持ちがあった。完全に嘘ではないが気遣いを疎ましく思っている自分がいるのも事実で、悟られたくなかった。
仲間と一緒にいるとそこがあまりに楽しくて、家に帰った時の寂しさが一際強くなる。誰もいない部屋。冷たい空気。つい先日までやんちゃ盛りの子猫達が遊び回っていて気づかずにいた、一人でいる時の無意味な部屋の広さ。空虚な心を具現したかのように寒々とした世界。
元々誰かといるということ自体不慣れだった。
こちらに来てからは何とはなしに一人になれないことが多く、いつの間にか側に誰かがいることが当たり前になっていた。おかげで夜中に静かすぎて目が覚め、自分の温もりしかない空気の冷たさに落ち着かなくなった。今はまだ不眠症程度ですんでいるが、このままではこの先どうなるかわかったものではない。
早く平静を取り戻したくて、逃げるように京一の脇を通り抜けようと足を出す。肩に手が置かれたのはちょうどその時だった。
「水臭えな。焔樹。用事だったら付き合ってやるぜ」
「別に大したことじゃないから、いいよ。俺のことは気にしないで、皆とラーメン食べに行ってこいよ」
「いいって。大したことがないんなら遠慮すんなよ。何しろ昼間ご馳走になった恩もあるしな」
人懐っこい上に有無を言わさない笑みに、反論のすべてが封じられた。目が他のメンバーを捜すがなぜか辺りに見知った顔がない。何かおかしい。
疑問を解明してくれたのは素っ頓狂な女の声。傲岸不遜の看板を掲げた新聞部部長の遠野杏子だった。
「何が恩よ。そんな義理堅い理由じゃないくせに。美里ちゃんは生徒会。桜井ちゃんは部活で、醍醐君は職員室に呼び出し食らってるところ。他に誘う人がいないから焔樹君の所に来たって正直に言いなさいよ」
神出鬼没の新聞部部長の言葉に、梓麻はそういえばと記憶を手繰った。
確かに授業の終わりにマリアが醍醐に何か話しかけていた。美里や小蒔も放課後に用事があるとかないとか、昼食時に話していた気がする。眠気にかまけて碌に話を聞いてなかったおかげですっかり忘れていた。
「ふーん。俺は代わりなんだ」
「いや、そんなことは…。って言うか、何でお前がいんだよ。アン子」
意地悪く言ってやると、京一は慌てて両手を振って訂正した。次いで突っ込まれた余計な嘴に噛みつく。忙しいことこの上ない。
勝ち誇った笑みを浮かべていた杏子は、軽く鼻を鳴らしてにんまりとからかった。
「あーら。あたしは焔樹君と一緒に帰ろうと思ってきただけよ。でもあんたって、案外友達少ないのね」
「ほっとけ。お前だって似たようなもんじゃねぇか」
「そんなことないわよ。焔樹君とは転校当時から一緒に帰ろうって約束してたわけだし、言わば先約よ。ねぇ、いいわよね。焔樹君」
「・・あー。駄目じゃないけど・・」
「何? あたしの誘いを断るっての?」
言い淀むとアン子の笑顔に凄みが増した。
「いやいや。そうでもないんだけど」
特別杏子が嫌いではないが、寝不足の頭にこの二人の漫才はきつい。言葉を探していると「それ見ろ」と言わんばかりの京一が言葉を挟んだ。
「あのな。アン子。こいつを気に入ってるのはよくわかるが、焔樹がお前を選ぶわけねぇだろが。こいつは俺と一緒に帰んだよ」
「何でよ。あんたこそ変にべたべたしないでよね。大体昼間だって焔樹君の弁当の大半かっさらったって言うじゃない。まったく、その食い意地の汚さは絶対にどうにかした方がいいわよ。折角下級生が騒いでくれてるんだから、期待に応えてもう少し中身も矯正すべきなんだわ」
「この俺のどこを矯正しろってんだ!」
「その中身におけるすべてをよ!」
「――わかったよ。三人で帰ろう」
がくりと肩を落として終わりの見えない言い争いに介入し、さっさとその場を後にした。これ以上聞いていたら本当に頭痛がしてくるかもしれない。本当に一緒に帰る気があるなら、言わなくともついてくるはずと、後も見ずに早足で扉を潜った。
案の定どちらも慌てたように教室を飛び出してきた。