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誘惑の果実

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うたたね


空調機による人工的な温風が広い部屋を適度に暖めている。じんわりと暖まった身体の熱の心地良さの中目を覚ました。カーペットで転寝をしていたらしい。思わず乾いた口元をぬぐってみながら身体を起こそうとすると腰の重みに阻まれた。見ると淡い色の髪が自分の腰の窪みに蟠っていた。
桃子の身体を枕にして眠る男の頭をそっと撫でた。響の寝顔は珍しかった。いつも桃子よりも早く起床し、遅く寝る。転寝だってなかなか無いことだった。起き出すのは諦めて響の寝顔を見詰める。死んでいるのか生きているのか分からないぐらい静かな寝顔。気紛れで残酷で美しい猫科の猛獣のような男が力を抜いて自分の傍で休息している様を見るのは少し嬉しかった。常の皮肉気な口調も今は静かで、桃子も心穏やかに響に対することが出来る。石膏のような肌に長い睫毛が淡く影を落としている。整った鼻梁に、形は良いが酷薄そうな口元。昔から人形のような男だったが、寝ているとそれは一層強調される。本当に息をしているのかと疑いたくなるほどの静かさにふと手を伸ばして首筋に触れると、指先から脈拍が確かに伝わってくる。
まだ五時を少し過ぎた時刻だと言うのに大きな窓で切り取られた四角い空は真っ暗だった。もう暮れも押し迫って外は随分と冷え込んでいるが、室内は程良く暖められていて、薄着でいても快適だった。
淡い色の髪を指で掬う。さらさらと痛み一つない髪は手触りが良く、毛並みの良い猫を撫でているような気分になった。
心を許されているのだと思う。無防備な寝顔にそれを実感する。学園での殺伐としたやりとりが嘘のようだった。あの時は響が傍にいるだけで空気はぴりぴりと身を刺し、心は慄いていた。いつか響に殺されるだろうと思っていた。居た堪れなかった。
この豪勢なマンションにしたってそうだった。憧れの住まいだったけれどあまりにも分不相応で、しばらくはなかなか馴染めず、部屋のどこにいたって落ち着かなかった。
それがいつの間にかこうやってリビングの真ん中で転寝するようになっている。しかも響に枕にされながら。
自然と笑いが漏れてくる。
「何を笑っているんだ」
ぱちりと音がしたような気がした。長い睫毛がぱっと押し上げられて、今まで寝ていたとは思えないようなはっきりとした眼差しが桃子に向けられる。
「起きてたの?」
「いや、今起きた」
本当かと疑いたくなるぐらい明瞭な声だった。
「じゃあどいてよ。重い」
未だに腰に乗せられた頭を軽く叩くが避けられる気配は無かった。かえってこれまでカーペットに投げ出されていた腕がするりと桃子の腰に巻きついてきて、余計に拘束されてしまった。
「ちょっと夕飯の支度だってあるんだけど」
「桃子の寝心地が良いのがいけない」
「人を枕扱いしないでよ」
「柔らかさとか高さとか匂いとか」
「重い重い!」
ぐいぐいと押し付けられた頭を遠慮会釈なしに叩くが鬼にはまったく効果が無いようだった。にやにやと桃子に擦り寄ってくる様はまさに獣のようだ。
「待て!」
鼻先に掌を押し付けて叫んだ。響は笑いを納めてきょとんと目を丸くした。
あんまりにもあんまりな言葉だったな、と後悔するよりも早く響は例のにやにや笑いを再び浮かべて桃子の手を握った。
「良いよ、俺は桃子のペットだ。従おう、ご主人様。でもご褒美は?」
艶を含んだ瞳が細められ、おもむろに手が握り直される。ちゅ、と音を立てて甲に唇が落とされた。羞恥心に一瞬で身体が赤く染まる。反射的に立ちあがった桃子を今度は阻むものは無かった。しかし響に握られた手はそのままだった。立ちあがったは良いもののそれ以上彼から離れることはできない。
「ご褒美は? ご主人様」
恭しく桃子の手を取り跪いた響は、見惚れるように美しい上目遣いで強請った。いつまでも答えようとしない桃子の指に響の薄い唇が触れる。ぞくりと背筋が震えて思わず逃げを打つが、響の手がそれを許さなかった。狼狽える桃子を愛おしむように指先から付け根、甲、手首へと口付けが落とされる。ゆるゆると這い上る快感に堪えかねて桃子は叫んだ。
「水炊き!」
ややあって響はそれも良いな、と破顔した。


作品名:誘惑の果実 作家名:萱野