おやすみをきかせて
「あれ、どうしたの帝人君。随分と眠そうじゃない?」
「……眠いんです……」
カタカタとキーボードを鳴らす手は止めないままこちらに目を遣る臨也に、なにか押し間違えてそのミスが原因で刺されてしまえばいいなどと物騒なことを考えながら帝人は返す。その瞼は酷く重そうで、ぎゅうと抱き締めたクッションに埋めてしまったら最後、数時間は持ち上がらなさそうだ。
「寝不足? 夜更かしでもしたの?」
「あー……」
一瞬言い淀んだ後、反らされた視線に気付かない臨也ではない。声のトーンと場の空気がぐっと下がった。
「何か言いづらいこと? 浮気とかだったら俺、帝人君のこと殺しちゃうけど」
「違いますよ」
呆れたようなため息交じりの返答に、じゃあいいやと能天気さを取り戻した声が返ってくる。なんて馬鹿なことばかり考える人なのだろうか。帝人は欠伸をひとつ溢しながら、ぼうっと考えた。
「けどほんと珍しいね。君、たまに寝不足っぽいなって時はあるけど、それを表に出すことってそんなにないじゃない?」
「そうですか?」
「そうだよ。っていうか、寝不足を自覚してないっていうの? 寝てない自覚がないから、睡眠が足りてないって思ってないんだろうねぇ。心も体もさ」
「はぁ」
ちょっと長い台詞は全部耳を抜けていく。更にややこしさが増しているならば尚更だ。興味津々、という具合の臨也の声も、途中から聞くことを放棄して適当な相槌を打っていた。それすらもお見通しなのか、臨也は少し困ったように笑ってみせながら、柔らかな声を出した。
「だからこそ興味深いんだよ。そんな君が、どうして今日はそんなに眠そうなのか」
「う……」
「俺には言いたくない? それなら無理矢理聞くつもりもないけど……」
だめかな?
寂しささえ滲ませているような声に、帝人の心は揺れる。狡い、と思う。
――この人はいつもこうやって、優しさで揺さぶってくる。
「ね、帝人君」
「……はぁ」
そのため息は根負けのサイン。恨みがましい目を向けながら、帝人は臨也に念を押した。
「笑わないって約束してくれますか?」
「勿論」
「誰にも言わないでくださいね?」
「当然」
少しの沈黙。その間、部屋を満たすのは止まらないキーボードタッチの音だけだ。帝人は間違いなく赤くなってしまうだろう顔をクッションに埋めて、ぽつりと答えた。
「…………、です」
「え?」
聞こえない、なんて言う臨也に、それはアンタがその手を止めないからだ! と八つ当たりしそうになるのをぐっと堪え、半ば投げやりに返した。
「ホームシックです!」
カタ、カタ、カタ。キーを押す音が遅く、弱くなる。きっと臨也は今、丸くした目でこちらを見ているに違いない。その様を思い浮かべながら、ますます熱くなる顔をクッションに押し付けた帝人はつらつらと言い訳を並べていった。
「たっ、たまにはあるんですよ、僕だって……そういう時は正臣なんかと遊んだり話したりして気を紛らわせるんですけど、今は……正臣もいないし」
ツキリ、と胸を刺す痛みは無視をする。
「チャットに上がってもイマイチ人の集まりがよくないみたいだし、外に出てみようかって考えても僕じゃカツアゲされるのが関の山だし」
カタ、カタカタカタ、タイプ音が“押す”から“叩く”に相応しい音になってきているような気がした。話に飽きたのかもしれない。帝人の頭をそんな考えがよぎるが、一度回り出した口はなかなか止まらないようだった。
「じゃあネットサーフィンでもしてるしかないかって思ってもいつもみたいに寝るのも忘れるくらい入り込めないし、横になって無理矢理寝ようとしたってよく分からない気持ちがして寝付けないし」
「…………」
「そしたらもう朝だし眠いしだけど学校だしってなって、それで……それでここに来ても、なんか臨也さん忙しそうだし、やっぱり眠いけど寝れないし」
そのうちに帝人自身、自分が何を話しているのかもよく分からなくなってきていた。あれ、僕なに言ってるんだろう。今の話なんて全然しなくたっていいのに。
「だから眠いんですっ、以上です!」
「終わった」
カタンッ!
それを最後に、うるさく鳴り響いていたタッチ音が消える。部屋に静寂が蘇る。
「……え?」
何が終わったのだろうかと、帝人は鈍くなった頭をなんとか回そうとした。自分の話は確かに終わったけれど――
『ごめんね帝人君、どうしても外せない案件が残ってて。ちょっとだけ待っててくれる?』
「あっ、」
「情報屋折原臨也本日これにて店仕舞い」
言いながら立ち上がり大きく伸びをする臨也に、帝人はどう声を掛けるべきか迷う。ごめんなさい? いや、急がせてはしまったかもしれないけれど、臨也はきっと、その程度で情報の質を落とすような男ではない。それくらいは帝人にも分かっていた。だから、選んだのは。
「お疲れ様、でした」
「ありがとう」
正解だったらしい。臨也はふっと表情を緩めて、さて、と前置きながら一歩踏み出した。
「これでゆっくり本題に入れるね」
「本題……?」
「帝人君の不眠解決だよ」
帝人が座り込んでいるソファまでたどり着き、にっこりと笑顔を浮かべた。
「君が眠れなかった理由は大体予想がついた」
「だからそれは、」
「ホームシックだっけ? けどそれはきっかけで原因に過ぎない。それが長引いてそんな風になっちゃうほど眠れないのは、それだけが理由じゃない」
ボスン、勢いよく帝人の隣に腰掛けた臨也は腕を伸ばす。帝人の肩と腰を強く引き、そのまま抱き締めた。
「ふわっ、ちょっ、臨也さん!?」
「寂しかったんだね」
「っ、」
ぴくり、と震えるのを感じた。抱き締める腕に少し力を籠める。
「寂しくて寂しくて眠れなくなってしまって、助けが欲しくて俺のところに来たのに、ここまで放っておいて……ごめんね」
「………」
帝人が小さく、ふるふると首を振る。抵抗はなかった。もぞもぞと自分の落ち着く姿勢を探り、止まったかと思えばゆっくりと深呼吸をする。その様子に音もなく苦笑を浮かべた臨也の手が、短い髪をさらりと撫でる。
「おやすみ、帝人君」
「……けど、臨也さん、このままじゃ、疲れるでしょう」
――もう眠そうな声してるクセに、何言ってるんだか。
少し体を屈め、帝人の耳元にそっと寄る。いいから。囁きかける。
「おやすみ」
その囁きがあまりにも心地好くて。伝わってくる体温が、響く心音が、臨也の存在すべてが、緊張を解きほぐしていくような感じがした。重い瞼を素直に下ろせば、乞い願っていた眠気の波が帝人を襲う。逆らう術も知らないで、そのまま身を任せた。
「……おやすみなさい、臨也さん」
『おやすみをきかせて』
――おかえしに、おはようはぼくから。