ある冷えた夜に
「君の部屋、寒いよね」
平然と言い放った青年の横顔を睨むように見上げ、帝人はぶるりと震えた。寒さから身を守る唯一の手段である一枚の毛布を手繰り寄せる。
「ね、帝人君。自分でもそう思うでしょ?」
「……そうですね」
言い返す気力もない。素肌に触れる毛布の温かさを必死に拾い上げる。さっきまでは気にならなかった隙間風が刺さる。汗が引いたせいだ。
「臨也さん、」
「うん?」
「あの、……寒い、です」
だから服を、と続けようとした言葉は鋭い視線に遮られた。唇が震えて、出掛けた言葉が詰まる。体の震えは寒さのせいだけではなかった。固まった帝人の表情に、臨也はにっこりと笑みを浮かべる。
「そうだね」
俺も寒いよ。平然と言い放ち、パソコンのディスプレイへと視線を戻す。訴えかけることを諦めた帝人は、少しでも温もりを留めようと体を丸める。薄い毛布に包まれて、視界が黒く染まっていった。
どうしてこうなってしまったのかと振り返っては泣きそうになる。何かの理由で臨也を怒らせてしまったことは間違いないのだろうけれど、帝人自身に思い当たることがなかった。いつものように生活していたのに。臨也からの連絡にはすぐに返事を返したし、彼の気分を害すようなことも言わないように気を付けた。下校途中にかかってきた電話の対応も普通で、いつもと違った様子もなかったはず。それなのに、突然部屋に入ってきた臨也はいきなり帝人を押し倒し、何も言わないまま、何も聞かないままに、犯した。
すべて終わった後も、置いてあった毛布を投げて寄越されたっきり、剥がされた服も手の届かない場所に放られてしまった。臨也はといえばパソコンの画面をじっと睨みつけたまま帝人に一瞥もくれやしない。もし服を取ろうと手を伸ばしたら、と考えて、ぞっと肩を抱いた。いつだったか、似たようなことをした時に全体重をかけて腕を踏まれたことがあった。骨の軋む音が蘇り、強く目を瞑る。
――大丈夫、大丈夫。あの時だって、謝ったら許してくれた。いつもの優しい笑顔に戻ったじゃないか。だから今回も、きっと、きっと
「帝人君」
名前を呼ばれて身体が跳ねる。丸めていた身体を反射的に起こして臨也の方を向いた。笑顔を浮かべてこちらを見ていた。
「帝人君」
「っはい」
二回呼ばれた時は返事を求められている時だ。身体に染みついたルールが喉を震わせる。満足そうに目を細めた臨也が手を伸ばした。額に触れた指先の冷たさに帝人の肩が強張る。指が滑り、手のひらで額を覆われる。そのまま頭を撫でられ、詰めた息を吐いた。後頭部を巡った手のひらが頬へと降りてくる。
「冷たいね」
「……はい」
素直に頷いた、直後だった。優しい笑みを浮かべた臨也の指がぐっと曲がり、強い痛みが走る。
「いっ……!」
何が起こったのか、帝人には一瞬理解ができなかった。ぎ、と音が聞こえた気がした。爪を立てられたのだと気が付いた時にはもう、鋭い痛みに帝人の目が見開かれ、視界が一気に滲む。引きかけた身体はかろうじて残っていた理性と気力で止めた。臨也の表情がほんの少しつまらなそうなそれに変わる。
「痛みは感じるかぁ」
「か、んじ、ます」
「そっか」
深く刺さっていた爪がゆっくりと離れていく。完全に離れた時、帝人の肩から力が抜けた。重力に逆らえず身体が傾ぐ。そのままぱたりと倒れ込んだ。
――怖かった。
あのまま、頬を抉り取られるかと、思った。
「ねぇ、帝人君」
「は、い」
「雪が降るほど寒い時には、爪を立てても分からないんだそうだよ」
怖いねぇ。にこりと笑んだ表情に、帝人はすべてを悟った。
……ああ、すべては、ただの気まぐれ、なのだ。
「そうですね……怖い、ですね」
曖昧に微笑む。時折起こす彼の気まぐれに対処する術を、帝人はまだ知られずにいる。ただじっと従って、波が去るのを待つしかない。
どうせまた明日になれば、今気付いたとでも言わんばかりに傷に触れて、「ごめんね」なんて平気な顔で嘯くのだから。
臨也の目がディスプレイへ引き戻されたのを見て、帝人はそっと頬に指を這わす。ぴり、と走る痛みに表情が歪んだ。わずかに濡れた感触。思っていたよりも深いらしい。二三日では消えないな、と静かに息を吐いた。
――正臣になんて言って誤魔化そう。
最近、外から見える傷が増えてきてしまった。腕の痣を見つけ、訝しむように訊ねてきた親友の表情を思い出す。参ったなぁ、と息を吐いた。
【ある冷えた夜に】
細い指先はいとおしく傷をなぞる