飛行機雲
ひどく柔らかくて、心地良かったんだ
そんな、誰かに必要とされる、それは確かに自分にとって
今、ここにいる事の出来る免罪符
君のために、傍にいようと
>>>飛行機雲
自分より少し先を歩く戦友の、そんな柔らかい笑顔を見たのは初めてだった。いつでも少し眉を寄せて、気を張っている様に見えたはずだったのに、自分の知らない顔をしていた。
フリーダム、と言う機体を操る少年の前で、アスランはひどく年相応の顔をして笑っていた。それに応える少年は、なにかを堪えるような顔でいつも微笑んでいる。
なりゆきでここにいる自分は全くの異邦人で、ただこうして少し離れた場所からすべてを見守っていることしか出来ない。そうして観察しているがゆえに、見えてくるものもある。
誰もが忙しなく動き回る格納庫の中で、目的の人物を見つける。集団から少し離れて、専用の機体を見上げて。誰の手を借りる事もなく、黙々と整備を続けている。あれだけの戦闘をこなした後だと言うのに目立った損傷もなく、流線型の柔らかなフォルムも、その背に広がる羽根の1枚も欠ける事なく。
「…見事なもんだな。」
機体の強度も、それを操る少年の腕も。
そう呟いてモニターを見続ける少年の後ろに立った。それだけで誰がいるのか理解したように、軽く振り返って笑みを浮かべる。
「なんとかね。」
いつでも、無理をして浮かべるような笑顔。表面だけで平静を装っても、背中ばかり見ている事が多くて、辛い、とか苦しい、とかそう言う感情がダイレクトに伝わってくる事もある。今のように。
「…お前、ちゃんと寝た?」
自分が仮眠を取って格納庫に戻ったときも、その前も、ずっとここにいる事を知っている。知っていて、そう訊く事にどのくらいの意味があるのかは自分でも解らない。それでも。
「…うん、ごめん。」
ゆっくりと、困ったような笑みを浮かべたままキラはそう応えた。最後が謝罪になったのは、実際のところ少しも休憩を取っていないからだろう。軽く溜息を吐いて、癖のある金髪を掻き回す。
「…あのな、そんな一杯一杯ですって顔でここにいるなよ。周りが気ィ使うだろ。…ほら。」
そう言って、細い腕を引いた。
「あの、でも…」
言い募ろうとするキラを視線だけで黙らせると、ゆっくりと腕を掴んだまま歩き出す。
エレベーターに乗り込んで、休憩室の並んだスペースまで引っ張って来ると、通路の突き当たり、窓際に並んだソファに座らせてから自動販売機にコインを落とし込む。少し考えてから、暖かなココアを選択してボタンを押した。大人しく窓の外を眺める少年が、好きかな、と思ったから。
「ほい、これ飲んだらちょっと仮眠とれよ。」
熱で柔らかくたわむ紙コップのふちを摘んで目の前に差し出すと、有り難うと言ってキラは先程よりは気の抜けた笑みを浮かべてそれを受け取った。ココアを運ぶ間にボタンを押しておいた自分用の冷たい炭酸飲料を取りに行って、隣に腰を降ろす。
視線の先には先程まで自分達がいた格納庫の屋根と、陽光を反射して光る海、雲ひとつない晴れた空。
両手で包み込むように持ったココアを吹き冷まして、少しづつ啜る横顔と交互に眺めながら、我ながら似合わないな、と思って唇の端に苦笑を浮かべる。切羽詰った顔ばかり見ていたアスランでさえ、あんなに柔らかく笑わせる事の出来る少年。本来は屈託なく笑っていて、今目の前に広がる青空の下こそ似合うだろうに、と思うと、今の状況が酷く恨めしい。それよりも、そんな笑顔を見てみたいと思う自分の方がどうかしてしまったのだろうか。
睡眠も食事も、必要最低限しか摂らないのは自分も同じだった。それは戦時下における兵士には普通で。けれど、隣に座る少年はどう見ても食事も睡眠も一般の兵士の基準に満たないどころか、民間人よりも足りていないように見える。ここを貸してくれているモルゲンレーテのスタッフよりも、休憩も取らなければ眠りもせず、ただあの機体の下でひたすら調整を続けている。生き物の基本とも言えるべき行動を必要としていないはずがないのに。
「…あのさ。」
本当に必要としているもの。それはきっと、今この世界に生きる全ての人に言える事。
ただ、穏やかで平穏な時間。
呟くように掛けた言葉に、なんですかと反応して。じっくり観察すれば、顔色も悪いし目の下には薄く隈が出来ている。そこまでして、この少年は何を求めているのか。
「…おま…いや、キラ?」
そう言えば、きちんと名前で話しかけるとか、そう言うコミュニケーションも出来ていなくて。それに気付いて訂正すると、酷く驚いたように軽く目を見開いた。
「…なんだよ、そんなに驚く事か?」
それが少しだけ気に入らなくてそう言うと、ちょっと意外だったから、と言ってキラは笑った。
「ええと、ディアッカ…さん?が、そんなに友好的に僕に接してくれるとは…思ってなくて。」
だからさっきも驚いたんですよ、と言って楽しそうにキラは笑う。
「…まあ…そりゃちょっとは抵抗あったけどな。別に、拘ったからどうにかなる訳でもないし。」
ザフトと、地球連合軍。
互いに違う陣営に属して、銃を向けあって。ほんの、数週間前の話。何度も苦渋を舐めさせられた相手が、こんなに儚いイメージの、無茶苦茶なやつだとは思いもしなかった。だから敵味方がどうの、と言う前に、純粋に興味があっただけなのかも知れない。
「…ま、人間てのは成長する生き物だからな。」
自分の考え方が、180度変わったように。そう言って、空になった紙コップを握りつぶした。
「ほら、そんな不思議な物でも見るような顔すんなよ。…終ったら寝る、ほれこっち。」
成長する生き物だと言った自分の方を凝視するように動かないキラを促すと、何を思ったのか腰を浮かせかけたディアッカの腕を引いて、引き止める。
「…なんだよ。」
その行動の意図するところが読めずにそう訊くと、キラは不意に笑みを浮かべる。今までの、どこか無理をしたようなものではなくて、本当に綺麗な笑顔を。
その表情に見蕩れて呆けたように固まっていると、キラは少し低い所にある頭をディアッカの肩に寄せる。そうして、少しだけ、と呟いた。
「…本当に、少しでいいんです。このまま、少しだけ。」
ひとりごとのように、段々と小さくなっていく言葉。触れた肩に掛かる重み。
「…キラ?」
肩に乗ったままの頭を落とさないように、そっと俯いた顔を覗き込む。
微かに聞こえる、呼吸の音。
「…ったく…だから言っただろうに…」
穏やかな表情で眠ってしまったキラに苦笑する。
誰だって、どうしても誰かの温もりが欲しい時だってある。穏やかに、せめて休息の時間だけでも。
力の抜けた両手から摺り抜けそうな紙コップを取り上げて、細い指先を自分の両手で包んで。
お休み、と囁いて、投げ出された手に口付ける。
そう祈るように見上げた窓の向こうに、いつの間にか白い一筋の飛行機雲がぼんやりと浮かんでいた。
終