あわいの海
「そなたが分からぬ」
毛利様はそう言いました。瀬戸海は春の光をうつしてきらきら潮騒があわい波を打ち上げます。船の上では揺れるその様子がことのほかよく見えます。毛利様はよく晴れた春の日に浮かないお顔で兜も重く、日陰になった目元を暗く淀ませているのです。
「何が分かりませんか。私の、外を分からないことに戸惑っておられるのですか」
「まともに会話ができるようでできないところだ」
「はあ」
つまり毛利様は私の思考がずれ離れていてよりあわせる気も起きない次元にあるのだと、そう言いたいのでしょう。わからない。それはとても度し難いことです。人々の心と心にできる摩擦ならばある程度の頭脳そして譲歩、愛があれば解決できましょう。とても頭の良い毛利様ならば絡まった糸をほどくことは簡単なのです、こと論理、人の心を作る糸であれば。
「毛利様はおひさまを見すぎて地にいる人が分からなくなりましたか」
「何を言っておる。我が見ているのは常に安芸、毛利を照らす日輪よ」
「守りたいのですね、この地を」
よいご当主様です、きっと。毛利様の大好きなおひさまのもたらす恵みが何に降りかかるのか、それを考えて生きておられるのでしょう。なればこそ私のことが分からないというのは度し難い。瀬戸海を守りたいという気持ちは、地盤や過程こそ違えど同じではないでしょうか。私たちがこの戦国の世で手を取り合うことはなくても、互いに何を考えているのか、見知ったことを交換するくらいはできるはずです。
「何も考えておらぬのだろう」
おひさまを背に受けて舳先に立つ毛利様のお顔は逆光に暗く、ひらかれた口が言葉をつむぐその様子しか見えませんでした。まぶしい春に、額にかかる髪を除けて日除けをつくります。左手を頭上にかざせば狭くなった視界の中に立つ毛利様はまっすぐでした。
「そなたの魂は空洞よ。守り育てられてきたゆえに縛られていると気づけ」
よく、意味がわかりませんでした。
育った場所を守りたいと思うのは道理。当然のことでありましょう。それを毛利様は違うのだといいます。私が今まで外に出ることなく慈しまれていたから何かが歪んでしまったのだと突きつけるのです。
「毛利様、では毛利様は安芸に縛られているのですか」
「違う。我はここに根を張っている」
「植物みたいですね。おひさまに照らされて。でも私と変わらないように見えます」
私はこの二本の足で地を駆け、船に乗り、どこへでも行くことができます。帰る場所がある。毛利様には安芸がそうなのでしょうか。頑なに動こうとしないまま地を増やし、そうして根を張っていくのでしょうか。
「そなたに海が守れるとは思わぬ」
舳先から届けられる言葉にひとみを上げると毛利様は逆光のまま黒い影を伸ばしています。
「苦悩の一つも知るまい。瀬戸海に訪れる夜の深さ、泥濘と侵略、謀略、身内を喰らう鬼の存在。そのようなままでは満足に眠れまいよ。己の息遣い、人の立てる音というものをそなたが分かっているとは思えぬ」
潮騒が船を揺らします。よせてはかえす波は白く、泡を抜けるとどこまでも濃い、青です。
「……よく、分かりませんが、毛利様は私が何も苦しんでいないとおっしゃりたいのですか」
「己が身に問うてみよ」
「へんなの」
私はきびすを返します。ひらり揺れる巫女服は軽く、潮風を受けて足を大きく前に一歩。
「私は今まで大事に育ててもらったので、傷なんてついているはずがありませんわ」
板を踏み抜かないよう慎重に一直線。とん、とん、とん。
三歩で見返って笑います。白い歯の見える、目をひらいた元気な笑みです。
「人の立てる音に脅かされることもありません。だって私はここを愛しています。暮らす人を、育ててくれた人々を。 だから私が怯える必要などどこにもありません」
両手を広げると袖が風を孕み、吹き抜けていきました。腕にあたる暖かい春風は心地良いです。
ここはとても、良いところです。
まばたきをすると睫毛が下のまぶたについてぱちん、と音をたてました。へんな毛利様。息遣いなんて気にすることでしょうか。私にはまばたきの音すらいつでもよく聴こえるのです。