彼女の林檎
彼女は表情を変えず、ふわふわと浮いている。
「お前を止めねばならぬと呼ばれたぞ」
「うるさい!」
両膝と右手が地に這い、顔を上げるのが精一杯だ。彼女が異界の守護者なら、彼は異説の騎士。勝利と誇りと、守るべき女性を今失う。
「わしが、お前を止めるに相応しいそうな。たしかに、お前が世界を壊すなら、わしはお前を壊さねばならん」
ついにわめく声が潰えた。風すらも立ち入れない秩序の聖域、女の両肩に懐く異形だけが蠢いている。
少年は呆然としている。
戦いのさなか一度として顧みられなかったその身は、鎧の外ではあちこちが欠け、中は臓器が軋んでいる。剣も握れない。指を犠牲にして放った魔法は一瞬前まで標的のいた場所を貫いて消えてしまった。
瞠っていた目を伏せて、俯く。
「じゃあ、消せばいいだろう」
堪えている涙に、声が濁っている。
「消せばいい。僕を「オニオンナイト」にして、名前を消したみたいに」
かすかに胸を逸らし、女の白い顎が傾ぐ。
「消えたいか?」
「消えたいよ! 僕はコスモスを守れなかった! アンタに負けた! 居場所なんかない!」
膝が崩れた。左の肘から手首のみを支えにして、顔を上げ続ける。
「お前の役目を果たせばいい。はやく、僕を消して、世界を守ればいい」
睨み付けられて女はまた首を傾げた。以前として宙を浮いたまま、動かない。
「はやく!」
「林檎は洗って皮を剥いたほうが美味いのじゃ」
女の言葉はたどたどしかった。話し始めたばかりの赤子のようだ。
いままで、彼女が言葉を必要としたことなど、なかった。
「林檎だけでもそれは美味い。そのまま食ってもいい。ただ、洗って剥いても良いのだ」
長いまつげを伏せる。少年はあっけに取られていた。
押し付けられたオニオンナイトの称号。彼女の守っていた世界のどこにも「自分」がいなかった。
ここで目覚めて、コスモスが「自分」をくれた。彼女を守る「自分」を作ってくれた。あの、「自分」を奪った憎たらしい世界を、壊せる力を。
「わしは世界を守るが、救うが」
言いよどんで、暗闇の雲が顔を上げる。美しいかんばせは彫像のように表情がない。
「その世界に、お前がいても、良いのだ」
人は彫像にいろいろな感情を見出す。
「お前がいない世界は、皮付きの林檎じゃ。わしは、剥いた林檎が良い」
ふわりと少年に顔を近づける。傷だらけの顔に。焦げた頬にそっと、そっと指先を近づける。
「「頑張って」いたなあ、わらし。世界でも、ここでも、「頑張って」いたなあ」
見るも無残な火傷を一撫でして、兜からこめかみに零れた陽光の髪に今度は触れる。ちりとした痛みすら、少年の驚いた表情を崩せない。
「わしはお前に勝ったから、わしに、お前をよこせよ。お前がいる、わしの世界を、よこせよ」
女のくちはしが引きつる。瞼に力が入る。
笑おうとしたのだ。
それを見た少年の顔のくちはしが同じように引きつる。目がほそまる。
ぐしゃりと、崩れた。
大声が上がる。
生まれたばかりの赤子のように。
火傷で痛いのに、その上を涙が滑る滑る。ぬぐおうとした薬指のない手を、やんわりと女が握り傷を癒す。
認めてほしかった。「オニオンナイト」は正義の象徴。彼の家に代々伝わる名前。魔物を倒すのも、人を助けるのも、愛するのも、身を挺すのも、彼なのに。「オニオンナイト」では、ないのに。
偽りの甘さだと知っていた。彼の守るべき世界はここではなかった。でも、彼は彼が守れるものが欲しかった。
暗闇の雲が剥いた林檎を欲したように、それは、本当なら、許されるなら。
「僕の……世界……」
傷を癒されて、立ち上がれないまま仰向いて少年は泣き続けた。
女は浮いたまま少年の髪に指を絡める。
彫像の微笑を人は見る。