不完全な幸せ
その幸せを感じるために、まず心にゆとりがなくては、と志摩は考えていた。
だからこそ自分がそれを感じるために妥協はしない。していないつもりだった。高校に入ってからは少しだけ上品に努めようと決めたのも、そのためかもしれなかった。祓魔師を目指すことも含めると、今のままではいつか痛い目を見るのではないかと思ったのだ。
しかし目に留まった女の子を見る度に、やはりずっと行ってきた言動は口をついて出る。口から言葉が出れば、後は相手の反応がどう返ってくるか、それだけだ。さらりとかわされることもあれば、可愛らしい反応が返ってくることもある。
そんなのを繰り返して、確認する。
これは幸せなことなのだと。
「志摩はよく笑うよな」
人の捌けた教室。
放課後の無駄に広いその空間の端っこで、志摩のノートを見ながら自分のノートに書き写していた燐がそう言った。
志摩は燐の机の前に居たが向き合ってはおらず、放課後のグラウンド、部活をしている生徒を眺めていた。視線は主に女子生徒に向いていたのだが、もしかして顔がにやけていたのかもしれないと思い、燐へと顔を向けた。しかし燐はカリカリ、と志摩のノートの字を見ながらゆっくりとその授業内容を写している。書き写している内容については、坊のほうがよっぽど当てになるんやけどなあ、と思ったのはこっそり飲み込んで。
「なんや、今更やな。俺の笑顔はチャームポイントなんやで」
「ふーん。でもお前、いつでも笑ってるしさ」
「うん?」
「癖みたいなもんかなって、思ったんだけど」
カリ、と燐の筆が言葉と一緒に一旦止まる。そして志摩のノートを自分のノートを見比べた後、またゆっくりと字を書き始めた。
その動作を眺めながら志摩は、癖ねえ、とぽつりと呟いた。どうしてそう思ったのか聞くべきだろうかと考えたが、すぐにやめた。目の前で僅かに動く黒髪を見ながら、志摩は燐の双子の弟である雪男を思い浮かべたから。
「まあそれもちょっとあるかもしれへんけど、やっぱり幸せなときは笑うもんやん」
もう一度放課後のグラウンドへと視線を移して、志摩は口元に笑みを乗せた。
少し喧騒は遠いが、それでも賑やかな空気はここまでちゃんと伝わってきている。
だからなのか、理解しきれないという燐の呟きは、志摩の耳にはひどく違和感を残した。
「しあわせ?」
カリ、とまた筆が止まる。
今まで顔をノートから上げなかった燐が志摩を見て、不思議そうに瞬きを繰り返していた。そんな燐を見て、志摩も思わず瞬きを繰り返し、どこか動揺したまま、言葉を紡いだ。
「ほ、ほら。奥村くんもしあわせやなあって思うこと、あるやろ?」
そう言って、燐がもう一度、しあわせ、と呟いた音を耳にした時、志摩は失敗した、と胸の中で自分を罵った。
一瞬だけでも、燐が表情をなくすことは、珍しい。そのふとした瞬間に見えるそれに初めのときはたいそう驚いたが、燐の事情を知った今では、そんなに驚かなくなった。
でも喜怒哀楽がはっきりしているのを知っているせいか、後ろめたくなる。燐の事情を知っていたのに、どうにもこうにも、このよく喋る口を志摩は時々塞ぎたくなる。
書き物の音をなくした教室はただ外の喧騒を拾うだけで、それ以外の音は何もないように感じた。でもそう感じただけだったらしく、燐は、やっぱり、と志摩の心の内を知らずにからっと笑った。
「スキヤキだな、うん」
「……へっ……?」
だからスキヤキ。
燐は嬉しそうに頬を緩めて、志摩の言うとおりだな確かに笑っちまう、と可笑しそうにしながらまた筆を進め始めた。
カリカリカリ。燐が描く文字を視界に入れながら、志摩はしばらく呆然としていたが、事の意味を噛み砕いて飲み込めて理解できてから、ああそうか、といつの間にか止めていた息を吐いた。途端に身体の力が抜けて椅子の背凭れ部分に思い切り背を預ける。
いらない気を遣ってしまったと、志摩は反省する。いや、遣わなかったからあんな言葉が吐けたのだ。
燐の反応は素直なもので志摩はたいへん救われたが、これを勝呂や三輪、出雲やしえみの前で言っていたらどんな反応が待っていたか。燐はそうじゃなくても、志摩は笑い飛ばせる自信はない。
笑顔は確かに得意だが、限度がある。考えるだけでも恐ろしかった。
そして燐の弟である彼に、もし聞かれたら。
「兄さん」
カリ。
燐の筆が狙ったようにちょうど止まる。そして、おー雪男、と呼ばれた方向へと振り返りほのかに微笑った燐に、志摩はまたひとつ、目を瞬いた。
ごめん、遅くなった。そう言う突然の訪問者に、燐は特に驚いた様子もなく、まだ間に合うだろ、といつもの調子で答えてノートを閉じ、鞄に乱暴にしまった。
「また志摩くんに付き合ってもらってたの?」
「おう。時間あるって言ってくれたし」
「そっか。志摩くん、いつもありがとうございます」
突然雪男に名前を呼ばれ、少し違う思考に囚われていた志摩は妙な声を出してしまったが、いつもの笑顔の雪男を目にすれば、志摩も自然といつもの笑顔を作ることができた。
「いえいえ、どういたしまして。二人揃ってこれからお出かけ?」
「ん、買出し。今日の晩飯何にすっかな。雪男、何が食いてえ?」
「なんでもいいよ」
「それが一番困るって言ってんだろ」
ぶつぶつ言いながら鞄の中を整理している燐を眺めながら、志摩は、ほんとうに失敗した、ともう一度胸の中で思った。
志摩と燐以外誰も居ないのだから教室内に入ってくればいいものの、雪男は扉の前から微動だしなかった。その姿勢が、志摩に嫌な予感を降り積もらせてゆく。きっと聞いていた。幸せは何かと、そう言った志摩のことを。そして答えた燐のことも。確信はない、予感だけだ。
だから怖くて目が合わせられないと思っていたが、別れ際に燐がじゃあまたな、と言った時に反射的に手を振ってしまい、そしてその先の雪男の静かな表情と目が合った。でも合った、だけだった。
燐が雪男の側まで歩み寄るとすぐにその視線は外されたけれど、志摩はふたりの姿が見えなくなるまで笑顔を顔に張り付かせて見送った。見送って、ただ広い、たったひとりの教室の中取り残された志摩は、自分に確認するように、独り言葉にした。
「でも言葉にしいひんかったら、伝わらへんこともあるよ」
それが正しいことか悪いことなのかは、未だ分からないけれど。
でも燐はあの時微笑ったのだ。
それだけは確かな幸せだと、志摩には思えた。
思えたというのに、きっとあの双子にはそれは解らないのだろうと思った瞬間、何故かとても悲しくなった。
不 完 全 な 幸 せ