悪魔は誰?
最近、志摩の匂いが鼻につく。
甘い、花のような匂いを全身にまとっているのだ。幼い頃から一緒にいる勝呂にとってその匂いは違和感でしかない。
しかしその匂いの理由も、原因も、すべて勝呂は知っていた。
(ああ、今日も違う匂い、共通するのは甘いということだけ、)
志摩と勝呂は付き合っている。が、現在いわゆる恋人などという甘い雰囲気は2人の間にはない。
勝呂は祓魔師になるための勉強に打ち込んでいる。志摩は勉強はおざなりにいろんな女性に手を出していると噂で聞いた。
よく考えれば男同士で付き合っているなど常識では考えられることではなく、今のこの状況について不満を吐き出せる相手などいるはずがなかった。
志摩の女好きのきらいは元々知っていた、付き合い始めた頃はその雰囲気は一切消えたものの今となってはますます拍車がかかっているように思われる。
勝呂だって最初はつらい、寂しいと感じた。
それでも勝呂は志摩になんの追及もしなかった。志摩もそのことについて一切触れなかった、勝呂に対する態度が変わることもなかった。
そのうち勝呂は志摩のその行動に関して何も感じなくなっていた。恋しいという感情が冷めたのか、感覚が麻痺してしまっただけなのか、それは勝呂にもわからなかった。
「坊〜、久々に2人っきりですねえ。はあ、この坊の背中の感じも久々やわ…」
久しぶりに部屋に2人きりになり、志摩は勝呂を背中から抱きしめる。
勝呂はその温もりを実感しながらも、すっと胃の底が重く冷たくなっていくのを感じた。
また違う匂いがする、柔らかな優しげな香りだった。志摩のことだから可愛らしい女の子を捕まえているのだろう、そのことは容易に想像された。
この手で別の人を抱きしめている、そう思うとなんだか急に自分が惨めに思えて勝呂は自嘲的な笑みがこぼれた。
この硬い自分の筋肉質な体、守り甲斐のある華奢な体、どちらが魅力的かなんて考えなくてもわかる。ばかばかしい、こんなことを自分は嘆いていたのだろうか。
「坊?どないしはりました?」
「なんもないわ。それより離せ、うっとい」
志摩も勝呂の雰囲気が普段と明らかに違うのがわかったのだろう、人の心の動きには敏感な男だ。
胃に鉛が仕込まれているような感覚を持ちながらも勝呂は志摩の腕から抜け出そうと体をねじった。
「なんですの?そんな嫌がらんでもいいやないですか〜」
志摩は無理にいつもどおりの話し方で勝呂に問いかけた。
それでも勝呂は志摩が無理しているのが感じ取れた。
「志摩、もうやめよう」
我ながら底冷えのする声だと思った。
勝呂はこの一言で志摩には足りるだろうと思った。事実、志摩の腕が緩んだその瞬間に立ち上がり部屋から出ようとした。
その背中に志摩の声がかかる。
「…なんでですか?俺がフラフラしてるから?」
「違う、」
「もう、俺のこと嫌いにならはったんですか…?」
「違う、違うから…」
「じゃあなんで!!」
「嫌いじゃないからや。嫌いじゃないうちにやめたい。もう我慢できひん、その甘ったるい匂いも、お似合いや、その子と付き合ったらええ」
それだけ言うと勝呂は部屋を出て、後ろ手で扉を閉める。
不思議なくらい気持ちは晴れていた、台風の過ぎ去ったあとの空のようだと勝呂は感じた。
勢いで部屋から出てしまったが向かう場所がない。志摩が追いかけてくる様子も感じられないので勝呂はひとまず廊下へ出た。
これでいい、これでよかったのだ、と勝呂は自分に言い聞かせた。
自分でも、まだ志摩が好きなのだろうと思うし、自惚れではないが志摩もまだ自分のことを好きでいてくれているはずだと思う。
あてもなく廊下をふらふらと歩く勝呂。明日から同じ顔で笑えるだろうか、それだけが不安だった。
「坊、なにしてはりますの」
志摩とよく似た、しかし落ち着いた声が勝呂を呼び止めた。
「なんや、柔造か…」
振り返るとよく見知った年上の幼馴染がこちらに手を振っている。
今さっき別れてきたばかりの男と若干似ているだけになんとなく気まずく感じられた。
勝呂はうつむいた。
「どうしたんです?柔造がお話聞きましょか?さ、こっちに」
柔造に手を引かれ、部屋に導かれた。
抵抗する気にはならなかった、いや、なれなかった。
部屋に入ると、向かい合わせに、膝がぶつかるくらいの距離で座る。
手を握られたままだったが悪い気にはしなかった。
「そないな顔して、一体なにがあったんですか?」
「なんもない、」
「廉造ですか?」
一発で言い当てられてしまい、勝呂はぐっと息を呑んだ。
否定も肯定もしない、さっきのことが思い出された。
「そうなんですね…、あいつはほんまに…」
先ほどより強く手が握られたので勝呂はちら、と柔造を見上げた。
柔造の顔は苦笑いはあるものの目は一切笑っていなかった。
「じゅ、柔造…?」
「柔造はなんでも知ってますえ。廉造と坊のことも。ただ、俺やったらこんな顔させへんのになあ、て思ったんです」
柔造はその骨ばった大きな手で勝呂の額をするりと撫でた。
その表情からはどこか焦燥を感じられた。
勝呂はくすぐったそうに目を細めると疑問の表情を浮かべた。
そして柔造は、はあ、とため息を吐くと勝呂を抱き寄せた。
柔造の胸に顔をうずめた勝呂は突然のことに驚き、身を捩る。
「なっ…!何すんのや!離せって!!」
「離さへんよ。柔造はもう坊がつらい顔してはるんは見たないんです」
頭上で囁かれる言葉は今までのどんな言葉より心に甘く沈んだ。
勝呂は抵抗することもやめ、柔造に身を任せた。
その代わり、嗚咽もなにもなく、涙だけが勝呂の瞳からこぼれ、柔造の着流しを濡らした。
悲しいわけでも、悔しいわけでもなく、ただただ溢れる涙を止めることができなかった。
すると、より強く頭をかき抱かれ、呼吸が苦しくなる。
勝呂はとんとん、と柔造の胸を叩き、苦しい、と伝えた。
柔造は勝呂を解放し、だが手は握り締めたままで、やわく唇を食んだ。
「あいつなんかやめて、俺にしませんか?」
ずっと年のこと考えてたんですけどこの際どうでもええですわ、と柔造は笑った。
勝呂は思考が現実に追いついておらず、答えることが出来ない。
坊?と柔造に頬を撫でられてようやく心が追いついて、思考を再開することができた。
「なっ、なっ…なにしてん!?あ、あほ違うか!!」
「坊に関してはあほでもいいですえ」
垂れ目がちの目を柔らかく細める。それがどうしても志摩の面影を思い出してしまって勝呂は口を噤んだ。
柔造はその表情を崩し、もう一度勝呂を見やった。
「もしかして、さっき廊下うろうろしてはったんはあいつと喧嘩して…?」
「喧嘩じゃない、終わらせたんや、俺から」
柔造は驚きで目を見開いた。
勝呂は続けてつぶやく。
「今も、自分があいつのこと好きなんかもしれん、って思っとる。でもあかんのや。もう、無理なんや。」
そう言うと勝呂はうつむいてしまう。また涙があふれてしまいそうだ。
そんな勝呂を目の当たりにしても柔造は「そうですか」と言うだけだった。
遠くで坊、坊、と呼ぶ志摩の声が聞こえる。足音もこちらへ近づいてきているように聞き取れた。
「っ…志摩が来る、」