【01】 嗚呼、これは。 【三吉】
彼とこんな事をした覚えはない。
そうしたいと思った事もない。
だが触れてくる唇を、嫌だとは感じなかった。
病に蝕まれて変色した肌。薄い唇。見慣れた彼の姿。
そうだ、彼の包帯を巻き直すのは自分の役目だった。
彼を忌避と好奇の目に晒す事が嫌だった。いや、多分違う。触れさせるのさえ、嫌だった。
何故そう感じていたのかは分からない。そう感じていたことすら気付いていなかった。ただ、それが自分のする事だと思い込んでいた。
唇が、舌が、角度を変える。
一方的にされるがままで、三成は思う。
嗚呼、これは夢だ。
彼は逝ってしまった。彼は自分の大切なもの達と同じところに行ってしまった。
だから、これは夢だ。
それに気づいてしまうと、三成は触れ合った唇以外、僅かにでも他の場所には触れようとはしなかった。
口づけに翻弄される度、すがるものを求めて指先が空をさ迷った。水の中でもがくように。
思い知らされてしまった。
あの頃、"全て"など失っていなかったのだ。
それまでを"全て"と言ってはいけなかった。
だから、本当の全部を失った。これは自分の驕りが招いた空洞。そして空虚。
―刑部……。
溺れながら、三成は重なり合った唇だけで、音もなく彼を呼んだ。
にゃあ。
聞き慣れた声が近くでした。音色とさえ言っても構わないであろう、澄んだ声。
三成は呼ばれるままに目を開けた。
黒い猫が三成の胸に丸く座って、何らかの感情をたたえた金色の瞳で覗き込んでいた。
その小さな口が触れ合うか触れ合わないかの距離で。
作品名:【01】 嗚呼、これは。 【三吉】 作家名:黒猫刑部(のお世話係)