honeymoon
目覚めると、ベルトに拘束された私は、ひとりだった。
のろのろと視線を動かして、正面に戻して、そうして、ひとつ息を吐く。
―――置いていかれた。
―――捨てられた。
どちらの方が、しっくり来るだろう?
そう思案出来る程には、私は落ち着いていた。
でも―――、
「あれ、起きてたんだ」
ガチャリ、という音と、思わず背筋を正したくなる爽やかなその声は、
「………一言くらい、掛けてから出て」
開けたばかりの目蓋を閉じて、睫毛を震わせる程には、私を、安堵させたのだった。
「はい」
「…これ」
「? 君、好きだろ」
何の躊躇いもなく渡されたそれは、驚く程両の掌にすんなり収まる。
ミラー越しに覗いた隣の男はといえば、異なるメーカーのブラックをちびちびと空けていて、何だか私は、ひどくセンチメンタルな気分になった。
「―――十年くらい、前だったと思うんだけど」
―――どうかしてる。
この男に出逢ってから、何度も何度も感じたことだった。
「記憶が正しければ、家族四人で遠出したのは、それ一度きりだったはずだわ」
ゆっくりとプルタブを開けつつ、私は、改めて同じことを感じている。同じだけど、いつもとは異なった心地。
たとえば、運転席と助手席に初めて共に並ぶ感覚、とか。
「楽しかったんだと、思うの。それなりに。…でもね」
ハンドルにだらしなく上体を預けた男は、一定の間隔で缶をあおる。その度、喉仏が小さな呻きを上げて、どこかでそれを頼りに、私は口を動かす。
この男は、憎たらしい程こういうことが上手だった。
「多分、帰りに寄ったサービスエリアよ。三人は休憩に行ったの、眠ってしまっていた私を置いて。何も言わないで」
「ごめん」
「良いの…!大事なのは、そこじゃないのよ」
―――あれ?
今のは、おかしい。気づいてミラーを介さず覗き込んだ男の表情に、私は怒る気にもなれなかった。
だから、ただ缶の中身で唇を湿らせる。
「帰って来たとき、あの子は二本、缶を持っていたわ。そして、一本を渡してくれた。私は飲めない、ブラックコーヒーを」
手の内のミルクティーは、熱い。舌もざらつき始めていた。火傷してしまったのかも知れない。
「運転席と助手席に並んだ両親は、顔を顰めて剣呑な空気を纏って話し込んでいるし、隣でオレンジジュースを飲んでるあの子は、無邪気に窓の外を眺めているし」
フロントガラスに映る私と男の表情は、入れ替えた方がしっくり来るような気がした。
「ありがとう、って微笑ったの。誠二、ありがとう。お姉ちゃん、嬉しいわ。…聴いてないのにね、私しか」
―――ミルクティーが、熱い。
「だからね、きっと。唯一の綺麗な想い出に、なってくれなかったの。想い出すら、無いのに」
熱さに俯いて缶を検分すると、黒髪が落ちてカーテンを作ってくれた。でも、それは男から私が見えないことだけでなく、私から男が見えないことも意味している。
見たいのか、見せたいのか。よくはわからないし、わかりたくなかったけれど。
「ねえ―――、!」
耳に一房掛けて横を向いた私の瞳に映ったのは、ただ真摯に私に紅い眼差しを注ぐ男だった。
「あ、………」
「偉かったね」
「っ、」
「波江。君は、素敵なお姉さんだ」
何も通さない素の男に、何も通さない素の私は、どう映っているだろう。
たとえば、うっかり滲んだ涙を零さない努力をする私、とか。
空になった缶をふたつ、ホルダーに並べた。
捨てられない、気がした。
置いていけない、気もした。
「私、これから偶に、こういう話をするかも知れないの。―――聴いて、くれる?」
「俺で良いのかい」
「貴方が良いわ」
即答してからハッと気づいて、「貴方しかいないじゃない」とうわべは慌てたように、だけど心底ではのんびりと、取り繕って笑う。
口の端を上げてみると、自然と手が伸びた。私を見つめる、私だけを見つめる、男の頬に。
目蓋を下ろし触れた掌に掌を重ね、男は暫し、応えなかった。でも、その空白を私は痛いとも痒いとも思わなかった。
ちょっと、胸が高鳴っただけだった。
「じゃあ、俺の頼みも、聴いて」
「ええ」
「偶に、触れさせて。稀に、キスさせて。いつか、抱かせて。―――俺は、男だから」
徐に目蓋を開けて、男は私の額に額を当てた。コツリと。
物足りない、なんて切なくなる程に、優しい男だった。
「私で良いの」
「君が良いんだよ」
触れ合った皮膚から甘く浸み渡るように言い聴かせ、だけど、適当に付け足された「君くらいしかいないわけだし」。
それが余計に、私をおかしくさせる。計算でも何でも、どうでも良い。
「―――ええ」
だから、悪戯に失敗した子どものように、でもぎこちなく唇を開いて、舌を出した。
こんな自分、どうかしたとしか思えない。
「ねぇ…火傷したみたいなの。消毒、して」
それでも、どうせ相手はこの男なのだと、開き直る。
拙いけれど精一杯の誘惑で彩って囁くと、男はきょとんと目を丸くしたけれど、すぐに紅い虹彩を細めて愉しげに肩を揺らした。
「気をつけなよ」
―――どうかしてるからさ、俺。
―――ほんとだ。ざらざらしてるな。
キスの合間に、絡んだ唾液に掻き口説くように溶かされる台詞によって、私は私の喘ぎを初めて耳にしたのだった。
『honeymoon』
結局、あのまま長く濃厚な口づけを交わしただけだった。
しかし、私も男も満たされたような錯覚に陥ることが出来る程には、疲れていた。
「さて、どこへいきましょうか?王女様」
―――もうずっと、疲れている。
「私が運転するから、貴方は寝なさい」
「…本当に寝ちゃうよ?」
「だから、そうして頂戴」
反応を待たず、さっさとドアを開け降りてしまうと、男も渋々といった様子で凸凹のアスファルトに立つ。
やれやれと見上げれば、風は刺す程に冷たいけれど、真っ暗な空はどこまでも広く、数多の星々が瞬いていた。それと、蜂蜜に溺れたような、とろりと浮かぶ半月。
「悪くない」
ひとつ頷き、男が笑う。
「悪くないわね」
ひとつ頷き、私も笑う。
そして、疲れた顔を見合わせて、ふたりで笑う。
「どこへいきましょうか?王様」
「お前に任せよう」
「…本当に、勝手にするわよ」
「ああ」
車に乗り込んだ瞬間、本当に男が寝息を立て始め、私は呆れるのと同時に、何とも言い難い喜びを得た。
―――私は、男を殺すことが出来る。
あの街から逃げ出して以来、初めてのことだった。
これで真実、私は男と並んだのだと思う。並べたのだと、思う。
どうしようもなく、嬉しかった。
だって、私も男も、どうしようもない程に、ひとりで。
「そういえば、教えてあげたこと、なかったわね」
ふたりは、どうしようもない程に、ふたりだったから。
「臨也、―――――………」
気まぐれにウィンカーをつける。
とりあえず、海を見に行くことに決めた。
作品名:honeymoon 作家名:璃琉@堕ちている途中