嫉妬心で悪魔は生まれる
今は本来の役目としてほぼ使われていない古びた寮内は、人の声もなく、気配もせずに森閑としている。その中で、静寂を破るように硬い音を小さく響かせた。
この寮内には殆ど人がいないために、夜になれば辺りは暗闇に包まれる。頼りになるのは窓から差し込む月光だけ。
任務を終えて戻ってきた後、少し前に食堂で僅かに見た時計の針は日付を跨ぐ直前で、恐らく今は変わってしまった後だろう。
同室の兄はもう寝ているだろうかと考えながら階段を昇り歩を進めると、一室から自然ではない人工的な光が微かに漏れ出ているのに気づく。
旧男子寮には僕と兄しかおらず、その光は当然僕達兄弟の部屋から漏れ出ているものに違いなかった。
この時間に兄が起きている事は特別珍しくはない。予習でもしていてくれればそれでいいのだけれど、あの兄は勉学に関してはお世辞にも真面目とは言えないのだから困ったものだ。
僕が居ないのをいい事に、きっとだらだらと無益な時間を過ごしているのだろうと思って小さく溜息を吐きながら、何の温かみも感じないひやりと冷たいノブに手を掛ける。
「兄さん、まだ起きてるの?」
開口一番に呆れたように漏らしながら、兄の定位置である寝床へと視線を投げた。寝そべってだらだらと過ごしている兄の姿を想像していたが、視線の先にその姿はない。
風呂にでも行ったのかと一瞬思いかけたが、部屋の中を一望してみると兄の寝床とは相向かいに位置する僕の寝床の上に、その人は居た。
「兄さん……」
抑えきれない嘆息が思わず漏れ出て、足をそちらに向ける。枕に顔を埋めてうつ伏せに寝ている兄は服すら着替えず制服のままの状態で、枕元に落ちている漫画雑誌に大体の想像は付いた。
大方、学校から帰宅した兄は僕の愛読している雑誌を勝手に引っ張り出して、僕の布団の上がりこみ読み耽ってそのまま寝てしまったのだろう。単純な話だ。
しかしそんな単簡な話と言えど、このままにしておくわけにもいかない。寝床はともかく、このままでは制服が皺になるのは想像に難くなかった。
肩を揺す振りながら「兄さん起きて」と二、三度呼びかけるが兄は小さく唸って眉を顰める程度で起きる気配はまるでない。
何度目かの溜息を吐き、コートを脱いで制服のネクタイを緩めながら開いたスペースに腰掛けると木の鳴る音が部屋に小さく響いた。
人の布団の上で眠りこける兄は大層気持ちよさそうで、僅かに開いた唇からは透明な雫がたらりと流れ落ちている。白い枕カバーの一部分が僅かに薄く色が変わっているその原因はこれだろうと苦笑せずにはいられない。
指先を伸ばしてその口元を拭ってやるとむず痒そうに唇をもごもごと動かして、その様がまるで子供のようで思わず吐息の混じった笑いを漏らした。
――何分なのか、何十分なのか。
飽く事なく眠る兄の姿を見ながら、僕の視線が髪と服の隙間から僅かに覗く白い首筋を見つけてしまった。何かに取り憑かれたようにその一点だけを見つめ逸らすことは出来ない。
そうしてその白い肌に不釣合いな赤が眼に留まる。瞠目して、一瞬呼吸するのを忘れた。震えた指先でそれを確かめようと伸ばし、いや、やはり見たくはないと引っ込め、それを数回繰り返す。
しかし指先は僕の知る恐怖を超えた。兄の襟を下へと僅かにずらし、髪を掻き分ける。そうして、僕は動きを静かに……止めた。
見間違いでもなんでもない。兄の首筋には赤黒い痕が、たった一つ。ひっそりと、しかし存在を主張するように僕には浮き立って見えて、これ以上は開けない程に眼を見開いた。
僕の胸の内にふつふつと沸きあがるものは動揺と絶望の他に――怒り。
一体、この痕をつけたのは誰だろう。一人、二人、と顔を思い浮かべるけれど、思い浮かべる度に腸が煮えくり返るような激しい怒りを覚えた。
けれど、今はいい。
綺麗で純粋な兄を一体誰が穢したのか、なんて、今目の前で寝ているその人本人に聞けばすむ話だ。それよりまずはこの忌々しい不浄痕を塗り替える必要がある。
暗い衝動のままに顔を埋め、同じ箇所に唇を一つ落とすときつく吸い上げた。ぢゅくっと耳障りな音がするのも構わずに、それが僕の印と変わるまで吸い続ければ、兄は小さく身じろぎながら呻く。
「……兄さん、起きて。兄さん」
今ならば起きるかもしれないと抑揚なく声を発しながら兄を揺さぶり、それを何度となく繰り返す。幾度目かの呼びかけだったのか、ようやっとただの呻きだけではない声を漏らした兄は、重そうな瞼を押し上げた。
「やっと起きたね、兄さん」
「ん……? あ、雪男……?」
寝起きだとはっきり解るほどのしわがれた声のまま、状況のわかっていない兄は暢気と思えるほどに未だに眠気の取れていないであろう目を瞬かせた。それに微笑を向ける余裕もないままに、僕は口を開く。
「起きたばかりで悪いけど、質問に答えてくれる? この首筋の痕、誰につけられたの?」
「……首筋? 痕? なんだ、それ……」
何時もより更に頭の働いていない兄は眉を顰めながら僕の言葉を反復する。心当たりが無いとばかりなその態度に、先ほど上書いた痕のその下にある忌々しい不浄痕をなぞるかのように指先で撫ぜた。瞬間、兄が僅かに震え、それに笑ってしまいそうになるのを堪えて、もう一度告げる。
「ねえ、ここ、誰につけられたの?」
「し、知らねーよ! なんかついてんのか?」
飽く迄しらを切り通そうというのか、それとも本当に知らないのか。どちらにしろ、不愉快すぎて堪えきれずに到頭笑い声が零れた。そんな僕の態度に兄は瞠目し僕を見るその目は動揺と困惑と少しの恐怖に揺れている。
「……お前、なんか変だぞ?」
兄の言葉に歪んだ笑みを浮かべた。変、と言われれば変なのかもしれない。けれど、それは今に始まった事ではない。今が変であるなら、それは昔からそうなのだから。
「僕にとってはこれが普通だよ」
兄さんが知らないだけで、僕はずっと押し隠していただけだ。と、言葉の裏にそうのせる。けれど兄はそれに気づくわけがない。
僕が肉親への愛情を飛び越えて、異性に抱くような恋慕を向けている等と、これまで少しも気づく事はなかった兄なのだから。
けれど、そろそろ隠すのは止めにしよう。このままでは、大事に大事にしてきた兄を誰かに取られてしまう。それだけは、なんとしてでも阻止しなければ。醜い独占欲だと嘲られ様が兄だけは絶対に渡さない。
僕が押さえつけているせいで身動きを制限されている兄は肩口で振り返ったまま動揺を隠せないようで僅かに震えていた。そんな兄に向けて薄く笑いながら、僕は再び顔を埋めた……。
森閑とした部屋で、横たわる兄を見ながら嘆息する。まさにぼろぼろと言う形容がぴったりなその酷い有様は、他の誰でもない僕ただ一人の仕業。
泣き疲れ瞼を腫らしてそのまま眠りに落ちてしまった兄の頬を撫でながら、僕は再び嘆息する。守りたいと願った兄をこの手でぼろぼろに傷つけてしまった罪悪感と、誰にも暴かれた事の無いその身体を手に入れた高揚感。
抵抗する身体を無理矢理戒め、肌を弄り貫いて、僕の施す愛撫に抑えきれない喘ぎを漏らして悶える兄のその姿はまだ見た事の無かった新たな一面。
作品名:嫉妬心で悪魔は生まれる 作家名:みみや