仮置き場
「上顎に軽い切り傷があったんで、念の為に軟膏をぬっていた。さっきの口内出血はそれだね。すぐ止まるよ。
あと背中に、いくつか打撲があったけどたいしたことない。まぁこいつの身体は、頑丈だからな。
頭には気をつけて。はい、お大事に」
先日定期健診をうけた藤田医師に送り出されて、病院を後にする。
映司とアンクはクスクシエ方面に戻ってしまい、今は伊達と後藤の二人だけだ。
二人は黙りこくって研究所への道を行く。伊達は会長への報告の為に、後藤は雑務の後始末の為に。
病院を出て、地下鉄に乗り、歩きなれた道を歩いていく。相変わらず一言も会話はなく、黙々と並んで歩き続ける。
さすがに最後の地下鉄を降りた時に、伊達がちらっと後ろの後藤を見たが、伏せ目の彼は何も言わず、ただついてくるだけだ。
(こりゃどうしたらいいんだか・・・)
伊達はぽりぽりと後頭部を掻き(決して痒い訳ではない。これは伊達の癖なのだ)、ため息をつく。取り付く島がもない、とは、こういう状況を言うのだろう。
(絶対、いやこれは相当怒ってる)
怒った後藤がどれだけ怖いか、伊達はよく知っている。日頃静かな奴ほど、キレたら怖い。
(さてどうしたらいいやら・・・)
研究所の建物が見えた時点で、伊達は覚悟を決めて歩く速度を落とす。
それに気づいた後藤も、速度を落とす。いい歳とった大人が二人、無言でゆっくりと歩く姿なぞ、傍目からみたら大層シュールだろう。
「後藤ちゃ・・・・」
「伊達さん」
足を止めると同時に、二人が声を出した。
ピクッと眉毛を動かした後藤が、振り向いた伊達の視線を逸らすように横を見る。
「なんでもないです」
「なに、後藤ちゃん」
「なんでも・・・」
「言ってよ」
伏せ顔の後藤は瞬きをした後、覚悟を決めたように顔をあげる。その端正な顔の眉間に軽く皺が寄っている。ああ、これは怒っている後藤の顔だ。
さぁ、どうする。そう覚悟をきめた伊達にかけられた言葉は、怒号でも叱咤でもなかった。
「伊達さんは・・・ずるいです・・・」
「うん」
「本当に・・・」
「うん」
「もっと・・ちゃんと・・・」
どんどんと顔が下を向いていく後藤を、伊達は正面から向き合って受け止める。そうしなくちゃならない、男ならば。ここで逃げる事は後藤に対して失礼だ。
さぁ来い。何なら、数発殴ってくれ。ポケットに両手を突っ込み、伊達は覚悟をきめる。とりあえずと思い、謝罪の言葉を口にする。「ごめんね」、と。
「ごめんじゃないです!!」
ばっと顔を上げた後藤の顔は紅潮し、拳になった両手が震えている。口元も軽く震えている。
「嘘ついた事ないでしょとか、結局嘘ばっかりついて・・・どれだけ心配したか・・・」
「マニュアルも読んでなかったし・・・」
「なんで、あんな下手な芝居を・・・」
おいおい、俺の渾身の演技を「下手」の一言で・・・と、心の中で半べそをかく伊達に気づくはずはなく、後藤は感情のまま言葉を畳み掛ける。
「他の人がどれだけ・・・」
「ごめん」
「ごめんじゃないです・・・伊達さんはもっと・・・」
自分を大切にしてください。
消え入りそうな声で言った後藤の両目は、いつの間にか透明な液体に満ちている。紅潮した顔は、耳のあたりまで赤くなっていた。
瞬きひとつで零れ落ちてしまうその涙を、後藤は両手を握り締め、必死で耐えている。戦略とは言え、一時は自分たちを騙した伊達に、涙なんて恥ずかしくて見せられない、という事だろうか。
その必死な姿を、叱られているはずの伊達は一瞬美しいと思う。
研究所傍の裏道には、めったに人は来ないはわかっている。ここなら大丈夫。
両手を差し伸べ、後藤の肩を掴む。涙をこぼすまいと耐える後藤に、その腕を振り払う余裕はない。それを確認し、伊達は後藤の細い身体を引き寄せた。
ちょっと埃っぽいシャツに、後藤の顔を抱え込むように隠すと、肩口の辺りに暖かい湿り気を感じた。その暖かさを、何か懐かしいもののように感じる。
「他の人だったら、こんなに怒りません。
「うん」
「伊達さんを」
「うん」
「・・・失いたくなかったんです」