俺が桂木に食われかけた時の話。
それは、洗脳の名残と泣きすぎでぼんやりした思考の中、道路でへたり込んでいた所で朝日の中でそっと手を差し伸べられたあの日……ではないんだわ、生憎。
「私は、ヒグチさんが好きだよ」
と、そっと、林檎みたいに真っ赤な顔して、涙目になりながら耳元に囁かれたあの日でもなくてさ、何でもない日の、すげー些細なことなんだけどさー。
「匪口さんの眼って、きらきらして飴玉みたいだね。舐めたらきっと美味しそう! ……うん、絶対おいしいと思うんだ!」
桂木が、前半は流行ってる歌の一節でも唱えるように、残りの後半は、拳を握って言うような熱の籠もった口調で、驚きに見開いた俺の瞳をじいいっと覗き込んだままの姿勢で見据えて、そう言った。
まさに、その時だったんだ。考える間もなくだぜ? 桂木の声が耳を掠めた瞬間に、意志とは関係なくさ、もう漫画かアニメみたいに、ぽろぽろ、ぽろぽろとさぁ。
「ちょっおまえ、きゅ、うにな、にぃってん……」
普通なら冗談だって分かって軽口を返すその言葉に、口を開いた途端に零れ出したのは掠れた声と、意志とは関係なく涙腺から零れ出したそれは紛れもなく涙だった。
肉食獣に喰われる前の小動物の気持ちって、こんな感じなんじゃないだろうか?
ソレが怯えだと気付く前に体中が支配されて身体が反応する。
両膝に手を付いて中腰に、胡座をかいた膝にPCを床に置いて座る俺を見下ろし無邪気に首を傾げる、自分とそう年の変わらない華奢な女子高生に、その時、俺の本能は確かに怖いと思ったんだよ。
このままじゃ俺、いますぐこいつに食われる……! と。もうね、アレだよあれ。最近は余り見掛けない容器入りのゼリーみたく。目の端に唇付けられてじゅううううって。
ちょっ、笑うなよ。想像してみなって。あんた、絶対明日からあのゼリー食えなくなるから。
そ……想像しちゃったの。そして泣いた訳さ俺は。
「んもうっ、冗談に決まってるじゃない! なんでそんな顔するのさ」
「あ……ぁ、うん、っ」
氷のように固まっていた俺の身体は、その明るい声と、そっと頬に触れた冷たい両手にようやくその緊張を解いてだね。
膝に乗せてたノートのキーの上の両手をね、背後の床について軽くのけぞって、ほうと息をついたんだ。付いたんだけど、さぁ……。
あーっ、その後だよね問題はっ!
なんていうかさ、俺みたいなもやしっ子でもね、安心してとはいえ、女の前で涙を流すってのは、恥ずかしー訳なのよ。てか気まずくて死んじゃう。俺、もう恥ずかしくてお婿にいけなぁーい。桂木が責任とって貰ってー!なんつって。
まぁ、まぁね。凹んだのは本当だけどさ、そこまでならそんな言葉でてきとーに誤魔化せるくらいだったさ俺でも。そーゆーの慣れてるし。なんてか、煙に巻くの?
そうなんだよ、そこで終わらなかったからさ、
「ちょ……何も泣く事ないじゃないのさ。もー、冗談だったのに……仕方ないなー」
ため息混じりにそう呟いた桂木の顔が、こつりと額を合わせられるような距離まで近づいてね。
それだけで、マジでゾクっとしたよ本当。ドキン、でも、とくんでもなく、ゾクッ。捕食される生物が最後に感じるのはきっとあれだね。
「……っひ、」なんて情けない声もさ、あんな目に遭ったら出るさそりゃ。命の危機にカッコ付けられるのなんて、どっかの馬鹿な化け物くらいだってマジ。
人間、食われる瞬間はもう、ソレが怖いなのかどうかも分からない。とりあえず脊椎の感覚と目の前の捕食者だけが全てだね。そういう点では貴重な体験かな。その後も含めて。
桂木はね、れろん、と頬から右眼の直ぐ下までを一気に伝ったざらりとした生暖かさと、目元に舌を止めたまま、その主が瞬間目の色に、俺は更に情けない悲鳴を上げる事になっちゃったよ。ほーんとなさけない。ソレ以前に、ちょっとじゃなく怖かった。
「やっ、やだなぁー。そんな驚かないでよ。冗談だってば! 好きだから、つい咄嗟に――」
「何だよっ!? 何の『好き』だよっ! 好きな『味』か、『食べ物』かっ!!」
でもさ、以来俺、桂木の前で食べ物に関する話できないんだぜ? 洒落にならないよ。もー、トラウマも真っ青になるトラウマさね。
作品名:俺が桂木に食われかけた時の話。 作家名:刻兎 烏