LOVE is temporary
もはや目も眩むような、そればかりの世界を見つめていた。言葉少なの(しかしそれは恐らく千景と比べたらの話であった)男の横顔は、見ているだけ、たったそれだけで千景の心をそぞろにさせる。眠りについた、正しい呼吸の音を数えながら、千景はじぃとその横顔ばかりを見つめていた。どの姿であれ、千景の瞳には門田の姿は清く正しい存在に見えていた。清く正しい、とはただの千景の心象風景だから、実際にはそんなことありはしないのだけれど。
もっとふれてみてもいいかな。千景は瞼をおろしてひきあげる一連の動作をゆっくりと行いながら考えた。同じベッドで眠っている、という事実は、千景が門田を陥落したという事実に等しい。けれどそれは決して、門田の全てを千景に委ねられた事実とは結ばれない。イコールではない。
ふれてみたい場所はいくつもあった。
例えばてのひら。ものを生み出す魔法のてのひら。大きくて、けれど少しガサついている。そのてのひらにもっとふれてみたい。ぎゅっと握りしめてみたい。爪のふちをあまやかすようになでてみたい。
例えば首もと。自分よりいくらかしっかりした首周り。人差し指と中指と薬指の爪の先でやわやわと辿ってみたい。くちびるで食んでみたい。そのまま鎖骨まで悪戯にふれてまわりたい。
例えば指先。てのひらの先の先、まばらに均一な丸いかたち。舌先で舐めてみたい。口に含んでみたい。その指先でふれてほしくもある。ふれて、辿って、千景のかたちを余すところなく覚えるようにして、そうしてくれたらいいのにと。
「手を繋ぎたいな」
空虚ではないが、虚空の空間に吸いこませるように呟いてみる。千景の声はやわく、まだ発展途上の甘さを有していて、その言葉はまるで幼い子どもがテレビの中、あるいは絵本や漫画本の中の憧れのキャラクターを真似して唱えた呪文のような願望だった。お姫さまになったり、翼が生えて空を飛んだり、怪物を倒す必殺技を繰り出したり。そういったような、夢想かつ非現実的、けれども誰もが一度は抱いたろう普遍的な「手を繋ぎたいな」。
門田は眠っていて、先ほどまでの情交で疲れているはずで、だからふれてみても起きたりしないだろうか。ならばそっと、ふれるくらいは構わないかもしれない。意識のある門田はガードがかたくて、ふれようとすれば逃げられて、抱きしめて縋ってそうでもしなければ諦めてもくれない。ただふれてみたい、それだけの欲求が満たせない。やさしくふれてみたい、やさしく見つめてみたい、ただそっと、それだけのことをしてみたい。
「……さわっちゃえ」
千景は、あまり気の長いほうではなかったし、隠しごとだって上手いほうではなくて、結局は己の欲求に素直な男だった。それでも形ばかりの我慢を―――少なくとも門田の意識のある前では―――しては内心の葛藤でくたくたになっていた。そんな努力をする程度には誠意というものを門田相手に大切にしていて、年下だからだとか、子どもだからだとか、そういう理由で色々なことを許されたり、諦められたり、放り出されたくなかったのだ。
けれど夜闇の誘惑は甘く、門田の寝息は深かった。だから一度だけ、千景は眠っている男に、自分の少しかさついた指先をそろそろと下ろした。掛け布団が動いて、肩辺りがすぅっとしたけれど、心臓が段々と叩きつけるような速さで脈を打つから寒さなど感じなかった。むしろあつい。
眠っている人間の横顔はうつくしい。その肌が呼吸のたびに動くのを、指先で感じて千景は安堵のような笑みを漏らす。生きてる、隣で、すきなひとが。たったそれだけのことを、指先で確かめて、かみしめる。どこが好き? そんなの全部。どこから好きになったかじゃなくて、どこまで好きになれるかだ。
「起きたら手、繋いでもらおう」
そっと触れたわずかばかりの面積だけで、もはやこれ以上幸せな夢はないだろうと、千景は思い描く。どんな夢想よりもこの温度だけが今の千景の全てであった。次に目が覚めたら、今度はきっと、彼から触れてもらおう。触れてくれたならきっと今度は泣いてしまうかもしれない。でもそれでいい、その恋の熱情だけが今の千景の全てなのだ。
2010.3.8
作品名:LOVE is temporary 作家名:ながさせつや